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東日本大震災から2年。

東日本大震災から2年、世界を恐怖させた原発事故から2年経った。

その間に、日本の議会(衆議院)は、憲法違反判決を受けている。

それでも、議会は新しくなり、それは便宜的には必要であるから、解散したのにすぎず、憲法違反の存在であることには変わりはない。

日本の人びとはつくづく温和なのか、人が良いのか、バカなのか、憲法違反の存在である議員に歳費が支払われていても平気のようだ。

誰も「無給で仕事をしろ」とは言わないのだけれど、私は飲み屋の戯れ言のように、言い続けている。前職の議員は無給、新人は5割給付(新人には憲法違反を回避するための行動はとれなかったのだから、無給というわけにはいかないだろう)は、当然のように思う。憲法違反の存在である人びとが歳費と呼ばれる給料を受けとっている……のは、私には詐欺行為にしか思えない。
それどころか、憲法改正を叫ぶなど、バカげていて、話にもならない。

日本の元首は天皇であるが、天皇が明治期から終戦まで、政治の中枢に返り咲いたように見えたが、実際には立憲君主国であって、天皇が政治を動かしたわけではなく、財貨を求めたわけでもない。確かに天皇は貧乏ではなかったろうが、鎌倉幕府成立以来、世界が「王」という意味で考えられる行為を、ほとんど行なっていない……そんな王は世界中にたった一人だ。それは世界でもっとも進んだ政治形態であったと私は考え、ヨーロッパの人びとに話す。いや、現在のヨーロッパの根底にある思想は、そこから学んだと私は考えてもいる(ユーロの元になった思想は……日本で生れた人物によって構想されている)。

現在の政権は……カンタンにいえば、反天皇主義者の集団にしか思えず(これに関しては説明する気はない)、日本を、本質から貧乏にして、国内的にのみ、景気が回復すれば、それで良い……と考えているように見える。日本を貧乏にすれば、日本に稼ぐためにやってきた移民たちを追い返すこともできる……とも考えているのではないか。本当に、それを人びとは望んでいるのだろうか。それは、先進国であることの放棄であるように私には思えてならない。

明治維新のように……が、このところの政治をめぐる「主流」のようにも見えるが、当時の政権にあった人物たちは、たとえば、榎本武揚ですら(この言い方は失礼だろうが)、英仏露蘭語に加えてラテン語まで読めた(つまり、世界の先進国の政治家と同じような視野でモノを考える能力があったということだ)というのに……維新期(明治期というべきか)に匹敵する人物が、政治家という人びとの中に、それほどいるとは思えない。

日本は先進国になったが、先進国であるための努力は……払われてはいない。

90年、ヨーロッパの空港のテレビは全て日本製(私の見た限りでは……だが)だった。現在は韓国製だ。それが時代の流れだとか、日本が先進国になった証しだ(賃金があがり、製品の値段があがったから)……で片づけてよいのかどうか。

2年前に出た「朝日ジャーナル」の別冊で、御厨實と渡辺恒雄は対談で、「政治」の方向がわからない……とあまりに正直すぎて、笑ってしまうことを言っているのだが、日本の人びとは先進国とは、何をすべきなのか、全くわかっていないように思えてならない。

現在のヨーロッパは、戦争という禍根を改めておこさないために、それぞれの国が動いていると(問題は限りないぐらいあるだろうが)、私には見える。

たとえば、フランス(スイス、スペインもまたしかり、だった)の不景気を考えると、町に求人広告など全く存在しない中で、人びとは職を探して生きている。日本の……少なくとも東京では求人広告は、町を一回りすれば、どこかで見ることができる……ぐらい、同じ不景気でも、格段の違いがあるように見えるのは、私だけか。先進国になれば、賃金は上がらない……はヨーロッパでは常識に思える。

先進国になりきれない日本……。

私は原発事故において、誰一人もが訴追されていないことを、理解できないでいる。

震災時に天井が落ちた建物の設計者(会社だったか)が訴追された……というニュースを見たのはいつだったろう。

原発事故は、普通に考えれば「威力業務妨害」ではないのか。これは間違いなく犯罪行為として、日本という社会では認定され続けている。
直後には放射能汚染によって倒産に追い込まれた企業(その企業が脆弱であった……で、片づけてよいのか)もあったはずだ。それは風評被害ではない。

その責任が東京電力にあるのか、政府にあるのか。どちらにしろ、そのどちらかではないのか。

政府にあるとして、その責任は、震災時の閣僚だけにあるのか。政府はかつて、「原発の事故はおきない」と明言して……想像するに、仮定の話になど、答える必要はない……と言っていたのだろう、と思っている。

だとすれば、歴代の政権の責任者(それを首相ととらえるのか、当該閣僚であるのか、の判断は別にして)にも、訴追が及ぶのは当然のことだ、と私には思える。

原発事故が起きた時、それを止められるのは、少なくとも東電の技術者の協力なしではできないにしても、政府の仕事であると私は考えていた。

しかし、政府の動きは何もないに等しかった。

その時、私は自衛隊に秘密部隊があって(これは、どの国でも国家機密に帰することだろう)、その活動の命令を出さない政府首脳に呆れたのだが、どうも、そんな部隊はないらしい。それは現在、創設されているのか。これもまた、国家機密の部類だが、それを持っていない……ということを世界中が知ってしまったことで。当然、日本に対する国家としての評価はガタ落ちであるのだが……そのことは、尖閣、竹島(竹島と呼んでよいのどうか。世界地図は……韓国領土と考え独島と表記しているのが圧倒的だ)の問題にすり替えられて……誰も追及しようとはしない。

9・11テロの後、世界は、テロに対して対応を考えた。日本でも、国家予算が「テロ」に関して使われたのは事実だろう。

原発のテロは、まだ、起きてはいない。しかし、それに対応する部隊がなかったのは……民主党政権だけの責任ではなく(彼らが有能だったという気は毛頭ない、彼らが目指していたのはヨーロッパ的社会で、自民党が描くのはアメリカの属国的存在であることの方向性も、ここでは問う気はない)、それ以前の政権にもあるのではないか、と私は思う。すでに現在の首相は、以前にも首相であったのだ。

その点に関しては、日本では、震災後2年を経ても、全く議論もなされていない。

私が、2年前、フランスに逃げた時……フランスには、国家機密だから、ほとんどの人は知らないが、実質として機能するのかどうかは別にして、「原発事故」に対する部隊があることは聞いた。国家機密ゆえにジャーナリストが普通に仕事をしたのでは、「ウラ」はとれないはずだが、それが存在していることを……私は知っている。

ちょっとうらやましかった。

現在、私にとって地縁がある……と考えるフランスの農村地域には、次々に風力発電のための「風車」ができている。電力事情でいえば、フランスは電力輸出国で……原発を止めるわけにはいかない。友人は、それを原発反対派の人びとへの「トリック」でしかない、とはいうが、トリックであったとしても、原発以外のエネルギー供給に関して、ひとつの成果を見せようとはしている……のは、先進国としての気概ではあるのだろう。

フランスに逃げた時の、自分の気持を思いだせば、喜劇的に滑稽であったとは思うのだが、その恐怖といってよい事実は各新聞社の記者たちは知っていたはずだ。ちなみに、ある政府関係者は、これからセシウムまみれの食べ物を食べなくてはならないってことさ……と戯れ言のように政府関係の会議の直後に話していたのを、直接私は聞いている。私が日本から逃亡した時、私は、原発事故に対応できず、被害が拡大した時に何十万の難民が海外に移住しなくてはならない……と考えていた。なぜか、少々フランスの田舎に、小さな家と、畑さえあれば(もちろん、日本政府が難民としての受け入れを求めなければ、人びとは難民にはなれないわけだが)、30人や40人を仮住まいとして受け入れることは可能だとも思っていたのだ。

ヨーロッパに暮らす友人(日本人ではない)の何人かから、避難してくれば受け入れるよう、とメールがあったことも付記しておく。
そして、人びとを受け入れる具体的な方法を、海外に逃げながら、ずっと考えていた。
そうはならなったのは、幸せというのは妙な言い方だが、心から「よかった」と思っている。
それでも……避難を続けている人はいる。

今年一年、原発事故によって避難を余儀なくされている人に「偶然」だが、何人にも出会った。
鬱病になっている人もいた。
息子が避難先で高校に入学し、もう、福島に戻らなくても良いのだけど。向こうにも家があるから、それの解決策さえ見つかれば(多分ローンが残っていたのだ。その人たちは、政府援助による仮の住居に暮らしていた)新しい人生を踏み出せるのに、と言っていた。子供にとって進学時の2~3年の避難は人生を変えることを余儀なくされる。後戻りなんかできるものか、と、私は思う。
福島に取材に行き、あるスポーツのジュニアクラスの大会で、「子供たちが減ってしまって」という声も聞いた。報道されている以上に、人びとは敏感に考え、行動しているのが現実だが、それを「反政府」的と考えるのだろう……ときどき、時事ネタの中でしか報道されない。が、故郷に戻る義務などありはしない。
この時、ショックだったのは、帰り道に、小さなラーメンレストランに寄った時のことだった。
家族連れが多い店で、小さな子供たちは、家族団欒に、うれしそう「ラーメン」を食べているのだが、どの家庭でも、母親がキリキリしていて、辛そうで……さらにささいなことで怒り続けているのを見た。どの母親も同じだったのに、私は驚き、福島に暮らす……小さな子供を持つ母親たちの心痛を、(引っ越したくても引っ越すことのできない家庭は多いはずだ)思って悲しかった。避難する悲しみ、避難できない悲しみ。彼女たちの行動は間違いなくパーソナリティによる怒りではなかった。

私がかつて仕事場にしていたワンルームマンションには、現在も避難区域になっている土地から東京の大学に出てきた学生が暮らしている。今度2年生のはずだ。夏の終わり、広いところに(広いが昔風の建物でそれほど人気の高い物件ではないから、家賃は高いわけではない)暮らしたい……それも大学のそばで、ということで部屋を借りたい……と。
住居を現在失っている家族が泊まりに来る……こともあるのだろう。だから、広いところに。私はそう思ったが、大家と店子の関係は……不動産屋を介して希薄な時代、はっきりしたことはわからない。ただ、引っ越す時に礼金を負けてほしい、と言われて、承知した。故郷を、失いかけている人びとの現実を思ったら、そんなことは何のこともない。

甲状腺疾患に関するwhoと日本政府の見解が、このところ新聞によく載っている。

子供の頃に甲状腺を全摘出するのは、不安でしかないことは……自分自身が、数少ない対象者であったから、特に思うことなのだが、可能性の過少評価できない、というwhoと、「そんなことない」と強弁する政府の「意見対立」を、私は理解できない。危険性は、間違いなく高くなっている……のは間違いない、そう思うからだ。
人を不安にさせることはないだろうが、2年前の15日には、東日本全体が被曝している現実は、覆しようがない。

東日本全域で、全ての人びとが被曝し……避難せざるをえない現実は目の前にあったことを……忘れないことを、そして、人びとの人生に素敵な時間が、いくばくかでも増えていくことを、祈り続けたい。

甲状腺を幼くして摘出しなくてはならなくなった人のために [原発事故]

原発事故からおよそ1年。小児甲状腺ガンになる確率の数字が、今年に入って報道されるようになり、その数値の報道ぶり、数が意味すること……を読みながら、いろいろなことを思い、悲しくさせられていました。

1000人のうち何人かが被曝によって、小児甲状腺ガンになる可能性がある……。

数字に置き換えれば0.……という数字ですが……日本に幼くして、甲状腺を失った症例というのが、今何人いるのだろう、と、まずは思ったのです。そして、報道されている数値から考えると……私の感覚では、原発事故によって、ベラボウな数の子供たちが「甲状腺ガン」になる状況にさらされているように思えてならないのです。

実は私は8歳のときに甲状腺の全摘手術を受け、甲状腺を失ったまま暮らしてきました。

これから書こうとすることは、医学的な根拠に基づいているというよりも、甲状腺を失って育ってきた、私の感情とか、体の成長についてです。私自信の感覚では、幼い日に甲状腺を失って暮らした人は、ほとんどいないと考えていることもあり、「不安をいくばくかでも解消できるのではないか」と考え、書くことにしたのです。

カンタンにいえば、甲状腺を失うということは、体のさまざまな部位を円滑に機能させるために必要なホルモンの「おおもと」を失うことを意味しています。自分の体で生み出している甲状腺ホルモンがゼロになるわけですから、それを補充する形の、薬を飲まなくては「生きていくことができません」。

私が8歳で手術したのは、当時、幼いにもかかわらず、喉仏が異様に成長したことがオカシイ、ということから始まっています。喉仏が大きい人といえば、私は王貞治さんが浮かぶのですが、小学校に入ったくらいから、私の喉仏は王さんのようになっていたのです。

甲状腺ガンで摘出したわけではありません。

通常子供には喉仏はありません。そこで成長しているのは「甲状軟骨」であろうと、ならば、それは摘出してしまっても問題がないという診断で手術が行なわれたのですが、実際には、その「喉仏」の場所に存在していたのは甲状軟骨ではなく、甲状腺だったのです。
その位置だけ考えるなら、私はある種の「異形の人」だったことになるわけですが、それはともかく、瞬時にジャッジをしなくてはならない手術の中で、結果的に摘出してしまった……ということになります。

医師にとってのイヤな言葉でいうならば「誤診」に限りなく近かったということもできます。ただ、私にとって、今になってみても、瞬時のジャッジとして摘出してしまったことを、医師のジャッジとしては間違ってはいなかっただろう、と考えているのです。それは正真正銘の本心で……誤解してほしくないのです。幼心に、とても素敵な若い医師だったので、その後、しばらくは職業として「医師」になることを私は夢みたことも記しておきます。

この件で父親が(母親もですが)医師に対して、妙な訴えをおこさないでいたことも、私は今も感謝しています。

ただ、摘出によって、それ以後は薬を飲まなくてはならない、という現実が始まりました。甲状腺ガンで摘出してしまった人も同様に、同じ現実が待っているはずです。現在とは、多分異なるでしょうが、私が育ってきた過程で知った知識によれば、幼くして甲状腺を失った例というのは、ほとんどいなかった(日本では症例ゼロといっても過言ではなかったということです)、と考えています。

問題は、この手術が小学校1年まで住んでいた関西の病院で行なわれたことでした。実際に、手術したときにはすでに東京近郊に私は暮らして、以降ずっと東京周辺に在住しているのです。だから、甲状腺を失ったことによる「甲状腺機能」の検査は、現実には東京の病院にいかなくてはなりませんでした。

当時、主だった甲状腺の専門医、病院というのは(今も、ほぼ同じ状況ですが)は、関西にひとつ、東京にひとつ、2つしかありません。

父親から聞いた話を交えて、当時のことを再構成するなら……関西の病院で手術をし、「誤診」ともとられかねない手術によって誕生した、ほとんど症例のない少年を、東京の専門医も、大学病院も、検査はするけれど、「長期間に渡っては見たくない」という状況でした。症例がないということは、何が起こるかわからないということで、医師としてみれば、甲状腺を失った少年を診るのは……それなりの覚悟が必要だったのだろうと思います。自らの手術の結果でもないのに……という感情が働いたのだろう、とも思います。

大学を卒業し、就職した直後のことですが、飲み仲間だった医大生が調べたところでは(私が検査を受けた大学病院で学んでいました)、幼い日に甲状腺を摘出した例を、その後の成長についての論文を見つけることができなかった、と聞いたこともあります。つまり、彼の見落としがあったとしても、ほとんど症例のない「何か起こるかわからない患者」であったということです。

結果的には、甲状腺が専門ではないけれど、ある中堅どころの病院の医師が「見てもいいよ」と言ってくださったので、私は、多分、10才ぐらいからずっと、その病院で「甲状腺」機能の検査をし続けることになります。彼は確か東大出の、内科の医師でした。主治医は、確か私が45才ぐらいの時に引退して、若い医師に私は引き継がれました。彼は75才ぐらいになっていたと思います。

後で詳しく書きますが、結果的には私は長く同じ医師に見てもらうことができ、それまでの過程にいろいろあったにしろ、幸福な状況でした。

甲状腺がないというのは、「薬」さえ飲んでいれば、多分、問題はありません。
ただ、幼い頃を含めて、その量をどのぐらいにするのかが問題なのです。

21世紀に入って製造中止になってしまうのですが、私は幼い日々から30年以上に渡って、「チレオイド」という、牛の甲状腺を乾燥させたモノをベース(それだけだったのかもしれませんが)にしている薬を飲んでいました。

現在は製造中止になってしまったので、それに関する記述は意味がないのですが、医師の言葉によれば、オールドタイプの薬でした。

その薬はビンに入っていて、「劇薬」に指定されていたのが、幼心に不思議な感じがしました。危険な薬を飲まなくてはならない自分とは、一体どういうことなのだろう、ということを考えたのです。さらに、この薬のビンに貼られた「効能」のところには陰委、生理不順と書かれていたので、小学生だった私は、誰よりも早く、辞書によって、インポとか生理不順ということを知ったのだろうと思います。

つまり、一般的にはインポテンツや生理不順を完全するための薬を、毎日服用するということになります。

飲み忘れたからと言って、まとめて飲むのは危険です。

毎日決められた量を飲む必要があります。

きっと医師に同じように説明を受けると思いますが、本当に大切なことです。

極端な例として私は考えていたのですが、一度に大量の薬を飲むと、心臓が本当に爆発し、目が飛び出し……体が火照り、喉を掻きむしるほど苦しくなって死ぬ……と、ずっと思いこんでいたこともあり(実際に、それに近い状況になるはずです)、忘れたからと言って、翌日補填する……などということは、一度としてしたことはありませんでした。そうすると、忘れてしまう日が何日もあれば、どうしても不足がちに、なってしまうわけです。

現在は、私の感覚では極めて化学的に作られている「チラーヂン」という薬を飲んでいます。正確にはオールドタイプの薬であった「チレオイド」と全く同じ効能ではないようですが、まあ、それは専門的にいえば、ということで、甲状腺の「薬」としては、他にはない……と私は考えています。長く、私を見て下さった医師によれば、オールドタイプの薬は薬価(つまり成分ということですが)が不安定なのに対して、新しい薬の方が(成分)、安定している、と説明されたこともあります。彼はきっと、オールドタイプの薬がやがて廃薬されることを知っていて、薬がなくなる5~6年前に、新しい薬を試してみようと、半年ぐらいだったか、私に処方しています。

その時は、まだ廃薬されていなかったので、「どうにも調子がよくない気がして」元の薬に戻してもらいました。

さて、実際に、甲状腺を失った人というのに、私は50才をすぎる人生で二人にしか会ったことがありません。どちらも大人になって「甲状腺ガン」になり、一人は全摘出、一人は半分を摘出しています。

全摘出しているのは、フランス人の友人で、「チェルノブイリ」で被曝後、甲状腺ガンになりました。別に原発で仕事をしていたわけではなく、確か、当時はキエフのそばに暮らしていたはずです。

不思議に思われるかもしれませんが、私より少々年上の、その女性に出会ったときに、ホッとした気持ちになりました。

当時、私はフランスに暮らしていて、「薬」について考えていたからです。もし、薬を失ってしまったときに、緊急に入手しなくてはならないとき、何日か分を、彼女からわけてもらえれば、生きていける……と思ったからです。もし、薬がなくなったら、というのは、常に重要な問題でした。海外旅行先で、もしケガをして、手厚く看病されて……しかし、私の意識が何週間も戻らなかったら……私を患者とする医師は……何で死んでいくのかわからないままに……なすすべもないままに……私は死んでしまう……という気持ちが離れなかったからです。

薬を失ったら、「死んでしまう」という感覚は、私にとっては、どうしようもない感覚でもあるのです。

もう一人は、ジャーナリストの男性で、イラク戦争の時に「報道」のために滞在していましたから、原因となったのは、劣ウラン弾による被曝だと私は考えています。彼の場合は半分摘出されて、やはり、私と同じ薬を1錠飲んでいます。

彼から聞いたところでは、全く薬を飲まなくても生きてはいけるのだけれど、半分になった甲状腺がフル回転で機能することで、改めて疾患になる可能性があるから……体に余裕を持たせるために……飲んでいるのだそうです。

全摘出と半分では、ずいぶんと感覚的に異なるのだなあ、と私は思ったものです。

彼は1錠ですが、私は3.5錠を毎日服用しています。

量については後で私の経験を書きますが、「薬を飲まなくては生きていけないといっても」価格的には大した出費にはなりません。私の場合で「薬代」は、一日10円前後だろうと思います。つまり、1錠だったら、その3分の1ぐらいということです。家計的には、ほとんど問題はないでしょうが、私の経験でいえば、半年に一度くらいは最低でも、「機能の検査」をする必要がある……とは思います。それが、保険を利用して5千円ぐらいでしょうか。これは、血液検査だけの値段ですから、さまざまな検査をすれば(あらゆる機能とリンクしているとすれば、心電図を計るとか……も時には必要になってくるように思います)、当然、出費は上乗せされると思いますが。

私が覚えているのは、「チレオイド」を半錠飲んでいたのが、飲み始めた頃の量だったと思いますが、最終的に大人になって量の異動が起こらなくなってからは3錠飲んでいました。

成長の「おおもと」のホルモンが失われているわけですから、量が足りない状況が続けば、成長しないのではないか……という不安を、両親は持っていたように思います。実際にクラスの中では小さい方でしたから、今となっては聞くこともできないのですが、ハラハラしていたのかもしれません。が、まあ、成長が全く遅れているわけではなく、「小柄」の範疇で、小学校、中学校、高校と私は暮らしていました。

その間に、生きるためには薬が必要不可欠であることから、普通とは、ちょっとかけ離れた感覚や思いがあったことは確かです。

たとえば、「テロリスト」にもなれないのだなあ、とか。

なぜ、そんなことを思ったのか、よく覚えていないのですが、テロリストの自分が、何者かに掴まってしまう……普通なら拷問とかを考えるところでしょうが、私の場合……もし、私を捕まえた人が優しくて……毎日ビフテキを食べさせてくれるような(古いなあ)人々であったとしても、薬を飲まない私は……3週間もすれば、死んでしまう……。(3週間というのは医学的根拠に基づいているわけではなく、ただの感覚的なものですが……多分、それほど現実も同程度ではないかと考えてはいます)

こんな思いは、甲状腺を失ったからといって誰もが持つとは全く思えないのですが、生死ということに、普通とはちょっと異なる感覚を持ってしまうように、私には思えてしまうのです。まあ、テロリストという思考は「個人」的な思考でしかないとは思うのですが……。

他に同じ症例で生きた人間を知らないので、私個人のパーソナルな感覚も一応書いてみたわけですが……だからと言って、私がテロリストになりたい、と強烈に思ったわけではありません。ああ、テロリストにはなれないんだ、と思っただけのことです、ハハハ。

正確ではありませんが、幼い頃の身長を記しておこうと思います。小学校を卒業した頃は141センチでした。高校に入った頃は156センチ。

父親は、大正生れの170センチ、母は160センチを超えていましたから、当時の世代としては大きい部類です。

でも、私の成長は、実に遅かった。

高校を卒業した時は165センチぐらいだったと思います。

成長は、とても遅かったのですが、小さいままで終わることもなく……私の場合は20才の誕生日まで身長は伸び続けて175センチで成長が止まりました。ちなみに妹も成長は遅かったと聞きましたから、遅かったのは、薬の問題ではなく遺伝子的な問題と考えた方が自然だったのでしょう。

体重は高校卒業時で56㌔。高校時代、学校一大きな弁当を持参していて……同学年の方のクラスのヤツが弁当を見にくるほど……「大食い」だったのですが、それは、薬とは関係のない話だと思います。多分、もっとも食べた頃には一日一升の米を食べていたように思いますが、ずっと細身でした。

甲状腺の分泌量が多いと発汗が多くなって痩せる……というのは基本的なことだと思っていますが、少ないから太るというわけでもないようです。細かった私の薬の量は、実際には、いつも少なくて主治医が悩んでいたとは後で聞いた話でした。

中学時代は、テニス部で、一応レギュラーでしたから、甲状腺がないからといって、ドンくさいなどということはおきないように思います。

ただ、薬の量が足りなかったようで、汗が全くでない……時代(中学の頃)でした。

運動しても汗が出ない……体質だったのです。もちろん、甲状腺の量の問題が、その根にあったと考えてもよいように思いますが、当時は甲状腺のことは余り考えず、私の体質が、そういうものだ……と思い込んでいました。

だから、この話を医師にしたことはなかったのです。話していれば、医師はそれなりにジャッジすることができたのでしょうけど……と、今になっては思うのですが。

やがて、汗っかきに私は変貌するのですが……それは、大学を卒業するぐらいからだったでしょうかまだ、現在のような体重(現在は90キロぐらい)ではなかったので、オデブだから汗っかきになった……というわけではありません。すでにこの頃には、薬の量は「大人」になったこともあり、一定量になっていましたから、体の欲し方が変わり、そのために汗が出るようになった……と考えてもよいのでしょう。

毎日飲めば問題ないのはわかっていても、実際に「忘れてしまう」ことは、たびたびだったように思います。それでも、忘れたからといって、翌日に、その埋め合わせとして、倍の量を飲むなどということは、「絶対にやってはいけない」という自覚だけはありました。

実は、これも感覚的なモノとしか言いようがないのですが、オールドタイプの薬を飲んでいる時には、3日ほど忘れると、やっと、体が「不足」を自覚するようになります。
現在服用している薬は、私にとっては「繊細すぎる薬」だからだと思うのですが、1日飲まないだけでも、てきめんに体が足りないと感じているのがわかるのです。

これもまた、感覚的なもので……この感覚は、医師に説明しても、わからないみたいです。

飲み忘れなければ、何もおきませんが、もし、もっと長い間、薬を飲み忘れたらどうなるのか。
これが、甲状腺を失った人にとって、もっとも不安な問題だろうと、私は思っています。

私の経験から感じたことは……体温が低下し、まるで「冬眠」するように体の機能が落ちて……まさに眠るように体のすべての機能が停止する……でした。感覚的に、それは次第に……起こることで、急激に何かが激変する、と思ったことはありません。

実は、テロリストになれない、という、妄想としか思えない感覚と同じかもしれませんが、「自殺」する、という行為が、一般人と全く違うことの自覚もありました。

通常、自殺する場合、人は首をつるにしろ、飛び下りるにしろ(それらは若い頃に自殺した友人の死に方なのですが)、何らかのアクションをおこすことで「死」を迎えることになるのに、甲状腺のない私の場合は、「薬を飲む」というアクションさえやめてしまえば、3週間ほどで死んでしまう……のは、感覚的にずいぶん、人とは異なっているのだ、と思わせたものです。

成長に関していえば、ボッキする、「精通」する、というのもずいぶん遅かった記憶はあります。小学校の時から知ってはいてもおきませんでした。高校に入った時にはすでにマスターベーョンをしていましたから、「最初の精通」は、中学の2年の終わり頃だったのだろうな、と、今になっては思いますが……正確ではありません。

ただ、薬の効能がインポであったりするために、自分の性的能力と、甲状腺の量がリンクしている……それはずっと感じていたことでした。心因性であるのなら別ですが、若い時に自分がインポになったように感じる時、薬が足りないせいでインポになっているのではないか、性的なことばかりではなく、他の機能にも影響を及ぼしているのではないか、という疑問(というより不安なのですが)は、いつも感じていたことです。しかし、感じたからと言って、医者に行き、すぐにそれが解消できる薬はない……ことは確かです。

でも、性的なことに関しての感覚は……振り返ってみても、何かおかしいですよね。いつも思った時にボッキしたり、精通しないと薬が足りないように思うのは……今となってはそう思うのですが、若い時にはそう感じていました。それは、性的なことは、おおっぴらにいろいろ知ることができないことですから(今もこのアタリのことはそうでしょう)苦しむというわけではありませんが、小さな強迫観念みたいな感じをもっていたことは確かなことでした。それでも、薬の量と性的なモノは、ずっとリンクし続けていると、今も考えています。

10代の頃、私を診てくれていた医師は、いつも悩んでいるのがわかりました。
多分、成長が遅いことと、薬の関係について考えていたのだと思います。でも、だからといって、薬の量を増やせば良いわけではないのです。

実際にのちに言われたことですが、「ある部分(機能的な問題だと思います)は致命的に足りない」のだが、ある部分は「これ以上薬の量を増やすと危険」だったのだそうです。
だから、増やすこともできず、減らすこともできなかった……と。

この感覚を、私は決していい加減だとは思いませんが、「まあ、生きているから(元気でしたから)いいか」と、ともかくは結論をだしていたのだそうです。

実際に薬の量がまともだったことは……私の場合は40才近くになるまで待たなくてはなりませんでした。

40才ぐらいの頃です。
医師が私の顔をマジマジと見て「●●クン、始めてまともな数値だよ」と言った時には、私は「エッ」と思いました。
若い時ならいざしらず、大人になって(成長が止まった20才すぎからは)からは、特に問題はないと思っていたからです。
「先生、ずっとまともな数値でなくて悩んでいたの?」
と聞くと、
「薬を増やすのも減らすこともできず(少し前に説明した状況の繰り返しになりますが)、まあ、生きているからいいか」
 そう答えたのです。

成長を終えてからの甲状腺の量は、それほど難しくないと思っていたのですが、そうではなかったのは……私には意外なことでした。

長く主治医だった彼の言葉に……甲状腺がないから、薬の量が生きるかどうかを決定づけてしまう……患者(私のことです)を前に、ずっと黙って(私が不安を感じないように)、診ていてくれたことに、私は涙が出そうになったものです。

私は、よい医師に恵まれたことで、健康なままに暮らせたと思っています(いや、途中で酒の飲み過ぎを強烈に言われたりもしたのですが……ハハハ)。

現在の薬になった時、(引退した医師の次に診ていただいた)医師は3錠を量と考えました。私は3錠をしばらく飲んでみて、「少々足りない」と感じていたし、そのように医師に伝えています。

でも、彼が調べたところでは、3錠以上飲んでいる例がないということでした。だから、3錠で行きましょう。ごく自然な、常識的な結論です。

でも、私はちょっと足りない気がしていました。

結局は、そんなやりとりがあってから半年後、医師は、「やっぱり、少し足りないなあ」と悩み、3.5錠に増やすことになって、現在にいたっています。

私自身がジャッジすることはできません。私が医師に伝えることができるのは感覚的なモノでしかなく、ジャッジすることは、医師に任せるしかないのです。量が多すぎることは危険だと私は考えているのです。でも、この時は、「あなたは自分で薬の量が足りているのかどうかがわかる不思議な人だから」と、困った様子で言われたものです。でも、足りないからと思ったから、自分で勝手に増やすなどということは「怖くて」できません。ジャッジは医師に任せるしかない……ことは、甲状腺を失ってから、ずっと、理解していたことです。

医師は、長くみてくれた医師の後輩で、私は病院を変わらずにいます。だから、この病院に私の10才からのカルテはあります。

新しく引き継いでくれた、私に対する、彼の最大の疑問は「甲状腺」の専門医はいるのに、何で、この病院に来ているのだろう……ということでした。

私は、前任の引退した医師にどうして診てもらうようになったかのを説明し……。

彼はその話で十分に納得してくれたようです。

ただ、専門医でもない医師が、甲状腺をジャッジするのは、医師にとっては、大変なことなのだ……思っていることもあり、ただただ、彼らに私は感謝しています。私一人のために、論文を調べ、症例を検討してくれていることがわかるからです。感謝以外に、何もすることができない……のが、患者の常だとしても、私のようないい加減な患者にも、そうしていることを何といってお礼をいえば良いのか……。

だからといって、自分自身では、特別な患者という気持ちは全くありませんでしたし、特別な患者だから、といばるようなことではありません。

でも、やはり、少々特別な患者ではあったようです。引退した医師は、退任する半年以上前に辞めることを私に伝えてくれました。そして、「まだ看護婦にも話してないから、黙っていてな」と言ったのです。看護婦より先に患者に引退することを伝える……(それは私の不安を和らげるためでもあったわけですが)などということは、ほとんどないことのように思います。

止める直前、別に検査があったわけでもないのですが……私がお礼に持っていったのは、フランスで買った、ちょっと良いワインを一本だけ。

それだけじゃ、絶対足りないんだけど……。

小児甲状腺ガンになるというのは、被曝以外には、私は考えられないのですが……もし、不幸にも、そうなってしまっても、生きていくことに、毎日薬を飲むという面倒さを日常にしなくてはならないとしても、他には、大きな問題はないように思います。

東北地方に甲状腺の専門病院があるのかないのか、それも私にはわかりません。ただ、一生涯、診てもらえるような先生との出会いがあれば、とは思います。少なくとも、大人になるまでは、一人の素敵な医師に診てもらう方が良いと私は経験から考えます。私がとても良い医師にめぐりあえたように、甲状腺を失った子供たちが、良い医師と(だって、生涯医師とつきあわなくてはならないのです)出会えることを祈っています。

このブログは、この後に、原爆事故一年を経て思うことを少々書いてありますが、一年を経て書いた2本の原稿の前には……1年前、原発事故で、私が日本からフランスに逃亡した経緯、考えていたこと……を記してあります。

原発事故後1年、どう考えても日本の現在は変! [原発事故]

原発事故から1年。

1年が経っても、あの時、福島原発で起きた事故が最悪を呈した場合、一体どのぐらいの量の放射能が漏れる可能性があったのか、その総放射能量というのはどのぐらいであったのか。今もそのことは明かされていません。使用済み燃料が暴走を始めるのが、「とんでもなく危険」というのを、新たな知識として、私はこの1年で得ることはできましたが、一体、それはどのぐらいの放射能を放出する可能性があるのか……それについての、つまり数値についての推定報道も、政府発表も行なわれていないのが、不思議でたまりません。

そんな仮定の話に答えられない……は、「ありえない」と断言していた事故が起きている以上、答えない理由にはならないでしょうが、それでも、「都合の悪いこと」は、できるだけ答えない……。

広島の原爆の時の総放射能量は10の24乗ベクレルだと言われていて、チェルノブイリは10の18乗、今回の福島原発は10の16乗というのが、私が理解している数字です。(この数字が日本で公表されたものなのか、私が一時期、原発事故報道をフランスのルモンド紙のみを信じていた時代に知った数字だったのかは、はっきり覚えていないのですけれど)、チェルノブイリの100分の1で済んだ奇跡、と、今回の事故に関して私は思っているのですが、それは、「事故直後」の状況を思えば、ほぼ、最良の結果で、完全ではないにしろ、ともかく政府が「終息宣言」を出せるまでに……鎮静化していることは、日本人にとっては幸運であったといえるのでしょう。

とはいえ、その後の「権力愚者」たちの行動を思えば、私が知りたい、と思うような数値を発表せずに、再稼働(それが日本で人が生きていくために必要だから、ともかくは最低限だけでも動かすというリクツを否定するわけではないのですが)するというのは、「権力愚者」たちの横暴というしかない、と私は思うのです。

1年前、事故が起きた時、多くの報道機関の記者たちの、ほとんどが「メルトダウン」していることを疑いもしなかったのに、報道されなかった現実とともに、最悪時の事態とはなんだったのか、が報道されないのは、私には理解できないことです。3月15日にはメルトダウンの可能性は疑う余地がない……は世界常識であったにもかかわらず、日本国内の日本メディアのみを見ている人たちには知らされなかった。その後の報道の経緯を見ていれば、初動報道のミスを隠すためにのみ、「自分たちは悪くない」を証明するための報道のように思えてならないのは、私だけの感覚なのでしょうか。

それを誰も指摘しようともしないし、指摘したとしても、問題にしようともしていないように思われます。

私が生れるはるか昔、日本陸軍(海軍がそうではないというわけではなく)の発表を「ウソ」と思っていたのに、それを書けずにいるうちに……結果的に陸軍の言っていることは本当だ、と書き出してしまった報道と、何が違うのか、私には理解できないわけですが……あなたは、どう理解しているのでしょう。

現在、権力中枢にいる人々自体が、「隠された報道」を逆手にとって、自らの仕事や、権力を使いやすいように解釈して……いるようにしか私には見えないのですが、表だってではない政府関係者の、飲み屋のざれ話で「これからセシウム満載のメシを食うってことさ」という話を聞いたのは昨年の5月ぐらいだったでしょうか。

すでに、この時期には状況は、ほとんど見えていたわけですが、感覚としては、それに近い報道は一切なかった……と思っています。

あと2,30年で死んでしまう世代にとっては、大した問題ではないように、私は思っていますが、多くの人はどう思うのだろうな。
個ではなくマクロで数字をとらえるならば、せいぜい、ガンになる確率が若干増え、平均寿命でいえば、わずかに(!)縮まる程度だろうということです。実際、それが原発事故のせいなのかどうかさえ、気にならないぐらいの数値の変化、なのでしょう。

でも、現在の「権力愚者」たちが連れて行こうとしている日本では、「セシウム丼」をチェーン展開するような社会かしら、と揶揄したくもなる……のも確かなことで。

この頃、盛んに言われる国歌の問題を見ていても、何か日本陸軍の時と同じで「権力愚者」たちのアグレッシブな行動に普通の人が負けてしまう……を報道が後押ししているようにさえ見えるのです。
国歌斉唱の時に立つのは当然ではあっても、日本の国歌が成立するまでの経緯を考えれば、もしくは知っているならば、日本の国歌は歌う気にはならないんだけど、と私は考えるから、という事情もありますが……。

多分、「権力愚者」たちのほとんどが、国歌ができた経緯を知らないから、もう法律で決まったのだから、従え……と言っているようにしか、私には思えないのです。

どうも、私は生来のひねくれもので、国歌にたいして、そんな具合に思ってしまうのを「すいません」と、心にもないことを、とりあえず言っておきますが……。

「君が代」は、もとを正せば薩摩琵琶の音曲です。薩摩? と思われる人が多いのだろうけれど……しかし、それを私は問題視しているわけではありません。実際に、文部省は長く「君が代」を、国歌とすることに抵抗していた経緯があった……などということもあまり知られていない話だろうと思います。

現在の状況から考えると、ちょっと意外な感じがする話だとも思います。実は、ゴリ押しするように「君が代」を国歌に据えるため圧力をかけたのは大山巌でした。日露戦争の時の総司令官だったっけ? その大山大将、いや、元帥だったかが、宴席で聞いた曲を、これは「国歌にふさわしい」と、考えたことから「君が代」は生れています。繰り返しになりますが、私自身にとっての問題は宴席で聞いた曲にヒントをえた……ということでもありません。
問題は「君が代」の歌詞にあります。
多くの人は「君が代」が問題なんだろ、と思われるかもしれません。が、そうでもないのです。
なぜ、大山巌がなぜゴリ押しをしてまで「君が代」を国歌にしたかったか……の背景が問題だと考えているのです。歌ってみるとすぐにわかります。あの歌詞は、間違いなく「長く国家として『巌(いわお)』が歌われる」ゆえに大山巌(いわお)、ゴリ押ししてまで国歌にしたかったか……と、私には「私心」まみれの「権力愚者」の行動としかとらえることができないのです。

歌ってみるとわかります。

国家の理想を歌っているようで、個人の「名」が歌われている……国歌を何で歌いたいと思うのでしょう。

これを知ると、歌いたくなくなるんだよなあ。

「巌」のところを自分の名前で歌ってみれば、気持ち良いと思うのかなあ……とも思います。

国歌に「いちゃもん」つけるな、という人がいれば、それは間違いなく全体主義者(ネオナチや人種差別主義者だろうと私は考えます)だろう、と私は思うのですが、国際的にもそんな例はいくつもあるわけで、別に「世界常識」を振りかざすまでもないとは思うのですが、近年では、フランス国歌の歌詞が残酷すぎると、フランス国内で問題になったこともあります。

問題になったのは「血で埋めつくされた野をススメ、ススメ」という部分。とはいえ、フランス国歌というのは28番(だったと思うのだけど……20番以上あるのは確かなことです)まで歌詞があるから、まあ、1番の歌詞がいやなら、他の歌詞を歌えば良いわけですが……。

この事実だけを知るだけで、「君が代」も10番ぐらいまで作ればいいのに、と私は思います。「権力愚者」の人には、そんな思考回路の持主もいなかった、ということなのでしょうけど……。
「ロクな国会論議もせず」にいつのまにか政争の取引みたいな形で法令化されたのが国歌を巡る法律の成立状況であったことを思えば、現在の「君が代」の歌詞を平気でいるのは……やっぱり変!

だからといって、私は大山巌を極悪人と考えているわけではありません。

余分なことだけど、大山巌に限らず、日露戦争に勝利した頃の「軍中枢部」は、日本ではもちろんだったのでしょうけれど、スイスで大人気の人々でした。スイスの、北西部にニューシャテルという人口10万人ぐらいの都市があります。この町の……ローカル新聞の、20世紀初頭のダイジェスト版には、当時の日本軍の中枢部の将軍たちが、ほぼ全員と思われるほどに写真入りで掲載されていた(全誌面の10分の1ぐらいは間違いなく占めているのです)ので、とても驚いたことがあります。

何で? 

そう思ったのです。

日本人の私にさえ不思議に思えた、その誌面が生れたのは……極東の小国日本が、ヨーロッパの大国ロシアに勝利した……ことを、日本の人々同様に、いや、ひょっとすると、大国の「圧力」に、常に苦しんできた「スイス」の人々は、それ以上に快哉を叫び、他国であるにもかかわらず、その軍部の人々(参謀クラスまで写真が掲載されているのです)をスイスの人々は「英雄視」したわけです。

まあ、スイスという国は、小さいし、戦争などしたこともないのですが、気持ちは「軍事」国家と私には思われるので、「軍事」に対する憧れのようなものが……その背景にはあるわけですが……。

どうも、余計なところに話がズレでいくことをお許しください。「大山巌」以下の軍部の面々は、世界的(スイスやフィンランドでは)に英雄視された人々ではあったわけですが、「巌」を歌わせてしまう国歌を、日本の人々は、変だとは思わないのかしら。

ちなみにフィンランドでは「日露戦争」の時の海軍司令官、東郷平八郎が英雄視されていて、確か今でもキリン一番搾りのように「ビール」の銘柄名として残っています。こちらも、やはり「ロシア」に苦しめられていた国ならではの……商品名といえるでしょう。

時にこんな「事実」を知ってしまうと、多分、君が代の経緯など、ほとんど知っているとは思えない「権力愚者」たちのことを、ザレ歌として、「君が代を歌えと命じる権力愚者は、ミカドの心を知らず」と、私はときどき歌ってみるのですが……あなたも、そんな気分になりませんか?

それは、私が完全な意味での天皇主義者だからなのだけど……。その説明はやめときます。原発のことを考える時に「権力愚者」たちの、現在の行動、知識のなさ、思考のなさの一端を考えてみたかっただけのことです。

ちなみに、本当に良い国歌とは、新しい国ができた時に、私の国でも使わせてくれ、という国歌だと私は思っているのですが、そういう風に考える人はいないのかなあ。

ヨソの国の国歌を自分の国の国歌にしてしまった例をあげておきます。

南アフリカがアパルトヘイトを止めて新しい国家を立ち上げた時には、タンザニア国歌の1番をそのまま、使っているのです。歌詞を読めば、なぜ、そうなったのか、たいがいの人はわかると思います。それぞれの国歌は、多分、それぞれの大使館のホームページで見られるので、よろしかったら……。

「権力愚者」たちの感覚に腹が立ち、少々、ブログを更新しようと思った理由の一つに、東京電力が、原発で避難して、今も家に帰れない人びと払う賠償金が600万円、という記事を読んだというのがあります。私は電気代をあげてもいいと思っているのですが、(何て寛容なのでしょう、ハハハ)。ただ、この額を聞いて、「権力愚者」たちの厚顔無恥ぶりに腹が立ったのは確かなことです。
「600万円」
6000万円の間違いじゃないの、と、最初は思ったのです。

もし、東電の社長宅は、原発で避難している●●さんにあげることになったので……と政府が言い出して、あなたには600万円あげるから、出て行け……と、こんな江戸時代のネズミ小僧のような、庶民には胸がスカッとするようなことを政府が命令するわけはないんだけど……もし、そんな事態になったら、あなた(東電の社長のことですが)、満足して出ていけるの……600万円で……と、私は思うのですが……多くの人は、そうは思わないのでしょうか。

現在の報道は、そんな質問をする気もないのかしら……と、私などは思うわけですが……

だからといって、東電で働く人を嫌っているわけではありません。現在の東電は、労働者を虐待していると、私は考えています。東電の営業所にお金を払いに行くと、「信じられないぐらい暗い」事務室で(それは節電ではなく、労働者の虐待です)事務の人々は働いています。

その明るさから想像するならば、社長室はロウソクで働いていることになりますが、誰も取材に行ってくれません。誰か見てきてほしい、とは思うのですが、知っている人はいませんか?

あの明るさは、間違いなく労働基準局が「労働条件を引き上げるように」と勧告すべき状況だと、私は考えているのですが……多くの人は、料金をコンビニで支払ったり、自動振込にしているから、そんな「現場」を見ることもなく、ほとんど知られていないでしょうけど、新聞記者の人も、たまには、ふらふらと営業所に払いに行けば、新聞記者らしい「正義漢」を持っている記者ならば、誰か書きそうな……状況であるのです。

おい見に行けよ……と、新聞社やテレビ局、雑誌社の人々……と私は思うのです。

私は、電気代を営業所に払いに行くたびに「その暗さに、愕然としています」。

もっとも、東電という企業の、社員への優遇(住宅購入に対するものを聞いたので、一応書いておくのですが)を聞くと、そのアタリは「リストラ」できるよなあ、とは思うのですが。

それはともかく、営業所の電燈の「暗さ」を、最初は世間の風当たりが強いのね……と思っていましたが、1年を過ぎても状況が変わっていないのは……「イジメ」という以外にはないのだろうと思います。経営者のヤツあたりとしての「イジメ」なのでしょうか、それとも、社会的に東電は「イジメ」てもいいと、考えているのでしょうか。

「権力愚者」たちの能力のなさが、こんなところにも現れているということなのでしょう。

まあ、話がまたズレてしまいますが、衆議院は現在、存在が司法によって「違憲」とされています。実は、この現実を厳密に考えるなら、次の総選挙で(未だに定数問題を解決していないので、次の次なのかもしれませんけれど)「違憲」状況を解消するまで、歳費をもらう権利はないと思うのですが……。

違憲というのは、法律に反している、ということです。フツーの人は逮捕されたり、嫌がらせを受けたり……する状況にあるということです。政治活動をすることは、「政党助成金」が出ているのだから(まあ、共産党は、このお金をもらっていないですけれど)、個人個人の代議士に、歳費を支払われる必要はないはずです。つまり、違憲状況を解消できるまでは、歳費はもらわず、ボランティアでやるべきだと私は考えるのです。国会議員がボランティアというのは、世界中の人々が「日本ってスゴイ国」だなあ、と感心するようにも思うかか、日本の国会議員は常に「収賄」することで生きているのだなあ、と思うかのいずれかでしょうけれど。

司法は、立法府の一部を担う衆議院に「歳費差し止め命令」を出せば良いと思うのだけど……そんな意見も出てこないしなあ……。

ひどい妄想とあなたは思いますか。

ともかく、原発の話から、どんどんズレてしまってごめんなさい。

でも、私が考える、最大の原発問題は、無能な……いや、無能ではなくちょっと能力のあるのかもしれないので、少々の敬意をこめて「低能」ということにしますが、「低能」な政治勢力によって(自民党も民主党も同じです)、日本人は、どれほど危険な状況におかれるようになってしまったのか、を考えなくてはならない、ということなのです。

低能だけでなく、セコくて、狭量ということも問題なのでしょうけど。

つい最近、吉田茂絡みの本を読んでいて、やっぱり、この人の大きさは違うわ、と思ったせいでもあるのですけど……。吉田茂の話はおいときますが……。

「小児甲状腺」の話と同様に、誰も問題にしないから、ブログで書こうと思ったわけですが……。

今回の原発事故で、全く話題にならないまま終わっているのですが、もし、東電のスタッフが「危険だと逃げ出してしまった時」には、日本にはそれを収拾するための部隊(当然自衛隊のことだけど)も持っていなかったということを、多くの人はどう考えているのかしら、ということを、私は最大の問題だと思っているのです。

「仮定の話」など、考える必要がない……とは、小学校以来、教師が難渋するような質問をするたびに「強権」的に思考を止めろ、と私は言われ続けてきたので、もう、黙っている気はないぞ、とは思うのですが……ハハハ。

この問題、日本では、驚くべきことに法律で、自衛隊は原子力に触れないことになっている……と教えられたのは、「原発の特集」を作った編集者の一人からでしたが、1年を経ても、この法律が改正される動きはゼロ……つまり、原発テロが起きてしまった場合……誰もそれを鎮静化することができない……ということを意味しているわけですが、日本に暮らしている人(私もそうですが)は、本当に、それで平気なんだろうか、と思うのです。

原発が安全である……を今必死に証明しようとしている以前……の問題です。

危険だと思ったのに逃げなかった現場に対して、危険だから逃げろと言った東京電力の上層部。そんなことはさせんとどなり散らした菅直人(当時の主将)というのが、1年を経て、真実であったらしいことは……わかったけど。もし、菅直人がどなり散らさなかったら……社員の安全のために撤退するから、アトは政府で……と東電が撤退してしまったら、政府は、日本をどう守ろうとしたのだろう……と思うのです。

原発事故に対する軍の対応は、多分、非常に難しいのは確かだろうとは思うのです。

フランスには「国家機密」ですから、すぐに調査できるわけもないのですが……部隊があると教えられたのは、昨年の夏のことでした。

軍の「原発」担当部隊ですから、当然、原発大国であるフランスで起きうる、時には隣国であるドイツの応援部隊として出動することぐらいは想定にいれて、演習をしているのだろうと思います。

私の聞いた話を総合すると、実際には、ごくごく小規模の放射能モレ事故を実際に作って演習もしているというのは理解できました。

ところが、机上の計算では、すぐに消し止められる(鎮静化)させられる程度の演習であるのにもかかわらず……収拾がつかなくなることがある……という話も聞きました。

その時は、特殊消防隊が出動を要請される、とも聞きました。

収拾がつかなくなった事態を収拾するための部隊がヤクに立たないので、消防隊が消しに行くという、まことに笑い話のような話ですが……日本には、そんな部隊もない……。笑い話にすることもできずに皆死んでしまう……と映画なら、そうなる話です。

この話は、軍から漏れてきたわけではなく、私の友人の暮らす村に……暮らしている(部隊は、50㌔走っても5つか6つの村しか通りすぎないような……その間には信号も見ないような……田舎に位置しています)消防隊の隊員が……福島の事故を見て、オレたち本当に大丈夫なのかなあ……と愚痴ったことを……どう思う、と友人からと質問されて、知った話です。

「危険」に決まってるじゃない、と私は答えながらも、フランスには「原子力事故」を収拾するための(それがいかなるマヌケなものであるとしても)部隊があるのか、と感心してしまったのです。

しょっちゅう、演習で失敗して「特殊消防隊」の世話になっている、マヌケな部隊……かもしれません。フランス映画の伝統のひとつでもある……権力のマヌケぶりを描く映画の主題になるような、部隊かもしれません。

でも、フランスには部隊があっても、日本にはない。

その現実を「権力愚者」たちは、誰も問題にしているように見えません。まあ、現在の防衛大臣を見れば仕方がないって……。彼のことはよく近くで散歩している姿を見ているので、別に思うこともあるのですが……まあ、そのことは止めておきます。

「国家」の危機(実際に原発事故はそういうものであったと……わかっているはずです)に対する防備がゼロの日本で良いのか、と私は思うのです。

これは、長く政権にいた自民党にも責任のある問題です。

もちろん、それは「国家機密」にかかわる問題ですから、原発事故から一年、部隊は、秘密裏のうちに準備されている……と考えたいのですが、でも、そんな可能性はない、とも思うのです。もちろん、「国会」で法律を作り替えなくてはなりませんから、本当に秘密部隊を作るにしても、法律は変えなくてはならないわけですが、そんな気配は、私の見る限りでは微塵もありません。

日本の「権力愚者」たちの低能ぶりを感じることは他にもあります。

福島の原発事故直後、私はフランスの原発を見つけようと……グーグルアースで原発を探したことがあります。2カ所ほどでしかありませんが、はっきりと原発の脇を通ったことがある場所なら、探せると思ったのです。

福島の原発も東海村の原発もすぐに見つかりましたから……。

ところが、私が見つけようとした限りでは、フランスの原発は、「グーグルアース」という世界では、雲がかかっていて見えないのです。

グーグルアースに「雲」がかかっている……のは、妙でしょう?

私が最初に確認した……福島原発事故の頃はリビアと戦争の可能性もあった時期でしたから、その直前に「国家権力」によって、雲をかぶせたのかもしれません。

とても不自然に、原発の上空に限って雲がかかっていて(私の知っている2カ所についてしか調べてはいませんが)正確な位置はわからないようになっています。

ミサイルの精度などを考えると正確な場所がわからないところに「撃つ」のは経済的煮は無謀であることは、「多分」軍事的常識でしょうから、雲がかかっているところに「撃つ」というのは、難しいことなのです。

この雲がいつからかかっているのか……については、私はわかっていません。

ミサイルの標的となるうる場所……原発テロ……の正確な場所がわからなくするのは……防衛としては基本であることは、すぐにわかることです。でも、日本の場合は、グーグルアースで見られちゃうだよなあ。

グーグルに、原発の上に雲をかけろ(フランスは間違いなく圧力をかけたら懇願したのか、どうだかはわからないけど戦略として雲をかけているのです)、と、何で日本の政府はいえないのか……。

北朝鮮の人工衛星打ち上げにともない、迎撃態勢もとっている……と報道されてはいても、今もグーグルアースで、原発の正確な位置はわかります。つまり、「危機対応している」ふりはしていても、現実には、日本は何もしていない国……ということになるわけですが、あなたはどう思うのでしょう。

防衛省もまた、「低能」の集まり……であると、ノンキに構えていていいのかどうか……。

このことを、私は、もっとも問題だと思うのです。一般庶民がノンキにいるのは、平和であるのだから、問題とは思いません。

「権力愚者」の低能ぶりが問題なのです。

一般庶民なみにノンキに平和な政治家や、役所の上層部を、私たちは必要としていないのです。

多くのことを、私は求めているわけではありません。

せめて、福島原発事故を、今回同様に収拾できる程度の部隊を持つのは、政府の「最低限」の義務だと思うのですが……もし、それを持てないのなら、政府はボランティアで成立して(献金/つまりには法に守られた収賄によって食えば良いということです)、「金儲け」(献金してくれる人たちです)だけを考える人々のことだけを考える勢力イコール「権力愚者」であることが露骨にすぎるようにも思えます。

これらの問題の背景には……豊かになることを、「すべて」と考えていた日本という国が、豊かになったのちに(1980年ぐらいには、世界的に豊かな国になっているのです)……豊かである国が何をすべきか……を、この国のあらゆる階層(政治的ばかりではなく、報道や作家という部門まで含めてですが)が考えることをせず、そして知らない(国内で学ぶことが不可能と言ってもよいぐらい、これに関しての意識はゼロに近いのですから)……という問題でもあるのですが……。

カトリーヌへ。地震の日、3月11日。

このブログは、私が、原発事故を恐怖に思い、フランスの田舎に暮らす、私のグランアミ(大きな友)である、カトリーヌの家に、およそ2週間、日本から逃亡し、そして帰国した経緯を、その謝辞をこめてカトリーヌに送るべき内容を、日本語で書き記したものであることを、まずは記しておかなくてはなりません。

なぜ、日本語で……など、その経緯は、ゆっくりと理解していただければかまいません。

誰のことをも、誹謗しようとは思っていません。ただ、馬鹿げている、と私が感じたことは、そのままに書こうと思っています。

文体も変わるからもしれません。

専門家ではありませんから、科学的根拠に基づいているものではありません。

デマゴーグの元になろうとも思ってはいません。
だいいち、私は現在日本に居住しています。

ただ、日本に帰ってきて、思うこともあったのです。

逃亡し、帰国するべく関西空港に下りたのは3月31日、東京に帰ってきたのは翌4月1日の午後8時すぎのことでした。品川駅に下り、私が見たものは、死人の町でした。死んだように見える人々が生きている……と、私には感じられました。そして、最初に思ったのは西行のことでした。

もののあはれの中で、ただ、自らを捨てて生きている人たち。それは、近代国家で起きた場合……難民が、自国で死んでいく……そういうことだろう、と私には思えたのです。
死ぬなんて大げさ? 私はそうは思いませんが、そう言われれば否定することもできません。

それは、滞在中にカトリーヌに説明できないでいたことでした。

カトリーヌは、日本人はストイズムの中にいるのではないのか、と疑問を私に投げかけていました。フランスでの報道(ルモンド紙)は、常に、私にとって知りたい情報は、日本の新聞よりも早く伝えていました。それについては改めて書きますが、日本の事件なのに、日本の新聞よりも、ルモンドの方が早い(あくまで原発に関してですけれど)ことを、私は不思議に思い、また、カトリーヌも、そのことを思っていたようです。

だから、淡々と私は、私が逃亡した2週間あまりのことを書こうと思っているだけのことです。

ブログにしたのは、私の原稿を、買ってくれるところなど……ないだろう、と今は思っているからです。そのあたりの説明は難しいので、はしょりますが……。

3月11日、午後2時46分。阪神大震災も同じ46分に起きたことは、31日に帰国してから気づいたことですが、私はその日、川崎競輪場で「名人戦」という、ベテランばかりを集めた大会の最終日を見に行っていました。ほんの気まぐれにメールで誘ったら、飲み仲間というのかガールフレンドというのか、退屈しているから一緒に行く……と、だから地震には二人で遭遇しました。こうやって書くことが、「私と競輪場でデートしていた?」と思われて、彼女の迷惑にならないだろうか、という思いもありますが、できるだけ正直に書くためには必要なことだから……と思っています。

「名人戦」に出場していた最年長は、西村という選手で60歳。彼は過去に強かったわけではありません。だから、スポーツ選手として水島新司氏の「あぶさん」のように年をとっても活躍している……選手ではありません。

佐賀県所属の彼のことは、確か10年ぐらい前に取材中に聞いた話が印象的です。

練習中、模擬レースを行なうと、若くて格上(西村選手をプロ野球で例えるなら、ずっと2軍の上位でやってきた選手といえると思います、だから、若くて格上の選手よりも能力は劣っているわけですが)の選手と練習すると、ずいぶんと離されてしまうことがあります。

若い選手なら、追いつけないほど離されてしまったら、模擬レース途中で流してしまう……のに、彼はどんな時も、ゴール板を通るまで、全力で踏んでいる。だから、長く選手をやっていられるんだよ、と西村選手の、後輩の、格上の選手に教えられたことがあります。
能力ではなく(もちろん、プロとしての能力があるから選手でいるわけですが)、毎日の練習で、決して手を抜かない努力が、大切だと……若い選手も西村選手から教えられることは多いようでした。この日出向いたのは、本当にそんな無駄にも思える努力をなし遂げてきた選手たち……が出ているから。若い選手のパツパツの筋肉と比べれば、萎びてしまった筋肉しか持っていない、50歳代の選手が数多く出場している名人戦を、私は見たいと思って出かけていたわけです。

川崎競輪場では、一番新しい観客席は、ゴールの反対側にあります。
私はそこの最前列に座って……7レースから観戦していました。

地震がくるのは……その日、場外発売として、川崎競輪場でも車券を買うことができた「宇都宮競輪場」の映像で最初に知りました。川崎に地震が到達する前に、すでに目の前のモニターに、地震の様子は映されていました。それを見ていたから、実際に大きな揺れがくる前に、「それが大きい」と、先にわかりました。
かすかな揺れが川崎競輪場にたどりついた時、すでに宇都宮は激しい揺れに、スタート直前の選手たちはうろうろとしたことを覚えています。結果的にはレースは出走を目の前にして中止になりました。

そして、ゆっくりとした横揺れが到達し。
多分、川崎競輪場のレースの監視カメラが搭載されている、鉄骨でできている塔がゆっくりと大きく揺れました。まるで折れてしまうのではないか、と思えるほどにゆさゆさと……。角度にして45度は間違いなく振れていました。
目の前の大きなガラスがきしむように音をたて、建物も大きく揺れています。

でも、私はなぜか、落ち着いていました。

激しい縦揺れが突然やってきたわけではありません。

ゆっくりとした揺れが徐々に大きくなり、普通なら、すぐに弱まっていくのに、全く大きさは変わらない。

ふと、知人(飲み仲間です)の地震工学の専門家(建設省の技官から大学教授になった人物です)の仕事ぶりを思いだしていました。

川崎競輪場は、公共建築です。
良い悪いは別にして、公共建築というのは、建設会社からすれば、潤沢な資金で建物を引き受けることが多いものです。だから……この建物が崩壊するようなら、歩いて10分ほどの川崎駅までの建物の多くが惨憺たる状況になってしまうだろう、そう思ったのです。

だから、あわてずにいられました。

それでも、揺れの激しさは、正面スタンドの奥から人がこぼれ落ちるように飛び出している様子でもわかりました。

観客は……競輪の観客というのは、言葉は悪いのですが、すでに定年してしまった人や、今も労働者として働く、身なりはオシャレとはほど遠く、作業着のまま来ているような、私より年上(私は52歳です)の人が多いのですが……皆、落ち着いていました。

フランスでは、カジノは、それなりにオシャレをして出かけますし、競馬だって……まあ、競輪場よりはキレイな身なりのような気がしますが、それだけ、ずっと庶民の「夢」をかなえてくれる遊びであったのです。やはり言葉は悪いですけど、イノチより大事なお金を取られ慣れているので、度胸が座っているというのでしょうか。

ひとしきり揺れが止まると「これじゃ、レースは中止だな」と言いながらも、次のレースの車券を買いに行く人もいて(私も買いに行きました)、誰ひとりパニックしているようには思えませんでした。それは、係員の人もそうで、実に落ち着いたものでした。

確か、川崎の震度は6(最初の速報では)だったと思います。

ちょいとタバコを吸いに喫煙ルームに入ると、誰もおらず、私一人が煙をたなびかせることになるのですが、普段は閉められている扉を、女性係員が開けていきました。
扉を開ける……は、地震が起きた時の基本、ですものね。

煙の害よりイノチが大事。

私はケイタイで地震情報を見て、金華山沖が震源、マグニチュースドは7、9と確認しました。
この時の速報ではマグニチュードは9、0ではなかったのです。

少なくとも、回りにいた観客で、ケイタイで速報を見ていた人物はいませんでした。現代社会から……ちょっと取り残された不器用な人たちが、集まっている場所……といえるようにも思えます。

隣に座っていたおじさんは、多摩センターから来ているのだそうで、儲かってもいないのにタクシーで帰るのは、何とも困ったなあ……と愚痴っていましたが、まあ、地震や津波のことは、まだ、何もわかっていない時点でのこと。
誰もが電車は止まるな、という揺れでした。
「関東が壊滅する地震が、やってきたのかと思ったけど、そうじゃなくてよかった」という声も聞きました。少々不謹慎でも、当時、誰もが東北で、あれほどの被害が起きているとは、想像できなかったから、それゆえの発言だったと思います。

それでも、私の座っている席の右斜め遠方、工場街の向こう側で、火事と思われる黒煙が上がっているが見えました。地震に火事はつきものですが、私にはそれがどこだかは、全くわかりませんでした。

観客の中に、多分、川崎の工場街で働いている人でしょうけれど、「あれは、多分お台場だな」と、的中させていました(その日の夜見たニュースで、それは確認しました)。競輪は当たらなくても火事の場所はわかる……は、世界のことなど、大して知らない……フランスの田舎の村の猟師たちが、森のことなら、何でも知っている……のに、似たようなものでしょうね。

レースが中止になる決定放送がされるまで40分ぐらいだったでしょうか。
購入した車券は60日後までは払い戻されると放送され、何人かが、すぐに払い戻しに並んでいましたが、それは後日に、ということで、川崎競輪場を後にしました。

競輪場の出口まで、「地震だからしようがないけど、それにしても揺れたなあ」という会話はあっても、騒然とした雰囲気はまるでなく、灰色や薄茶色、黒といった、オシャレとは縁遠い服装の労働者たちは、皆静かに帰っていきます。

ヨーロッパなら、サッカーに熱狂している客層に近いように思いますが、誰も暴れたり、怒ったりすることはありません。

日本は、いつもそうなのです。
社会の最下層と一般的にはいわれる人びとが、とても礼儀正しく……は、16世紀、日本にやってきたカトリックの宣教師たちが驚嘆した社会の秩序、文明が今も営々と続いていることを指し示しています。そんな秩序はヨーロッパには、その当時ありませんでした。農民は搾取され、獣のように生きていた……という記述は、当時を描いたヨーロッパの著作に、よく出てきます。

この日は、出口のところに一人、地震に驚いたのか裸足の60歳ぐらいの男性が倒れていて、係員が何人かで集まって、救急車を呼ぶべく相談している……ことを除けば、最終レースを終えて、皆が帰る時の雰囲気とさほど変わったところはありませんでした。

私は連れの女性とタクシーを探すべく歩きだしましたが、歩き始めて5分もしないうちに、タクシーは諦めました。まるで、拾えそうになかったからです。

競輪場から競馬場の方を通って、多摩川方面に歩いていきました。
途中、川崎大師線で、地震のために止まったままの電車から、人が歩いて駅に向っているところに遭遇しましたが、それも静かな行列で、誰も興奮などしていませんでした。

日本人ってすごいなあ、と私は思います。

私は、フランスの友人の一人が、我が家で震度2の地震に遭遇したことを思いだしていました。
ああ、地震だ……そう、私が思った時には、彼はパニックし、どうしていいかわからないほどあわてていました。

だから、テーブルの下にお入り、と言った記憶です。

それぐらい、フランス人にとっては地震は遭遇しえない、自然現象のひとつで、震度6の揺れ……は、世界の終わりのように思うのだろう……と私には思えます。

多摩川の、川崎から大田区の京浜急行六郷土手駅へ向う橋の上は、誰もが冷静な、でも、どうやって帰ったらいいのだろう、思っている人々で溢れていました。車はすでに渋滞。

橋の上からは、ホームレスの人たちが建てた、ブルーシートの家が見えます。

いつだったか、パリの運河沿いに、ホームレスのテントがぎっしりと並んでいたのを見たことがありましたね。 それと同じようなものです。

でも、パリの運河沿いは、 日本でいうなら、NPO法人の人々を通して提供されたモノなのに対して、日本の場合は、ホームレス同士の連帯はもちろんあるでしょうが、皆、自力で建てたものです。

でも、橋の上から見る限りで、ホームレスのビニールシートの家は、一軒が崩壊しているだけで、他は皆、何事もなかったように傾ぐわけでもなく立っていました。

台風などの増水に対抗するために、高床式住居のように工夫されている家もあります。ただ、青い、ビニールシートの家の……たったひとつを除いては、震度6の地震にもビクともしなかったのです。

橋を渡り終えるとパトカーが「津波注意報が出ているから」堤防の下に下りないように呼びかけています。
ホームレスの家は、堤防からはかなり離れているので、彼らに避難勧告をしたのかどうかはわかりません。でも、彼らの機敏な働きに、私は感心していました。

同時に、マグニチュード7、9の地震で、東京湾に津波? とも思ったのです。

太平洋上で起きた地震で、東京湾に津波が押し寄せることは、私には考えられませんでした。

潮位が少し上がる程度の津波になるのだろうか、というぐらいにしか考えませんでした。

すでにタクシーを諦めて歩いて帰ることにしていた私たちは、ともかく、コンビニに入って、水と……私はチョコレートを買いました。

あれだけ大きな地震だったのに、コンビニの棚からは何も落ちなかったので……良かった、とは私より少々若い女性店員の本音でした。

海岸線に近い……のは、地震の被害が多い、だから、きっと被害があったろう……と思っていた六郷土手駅界隈ですが、コンビニの様子などから感じたのは、河口に土砂が堆積した土地というよりも、そこがしっかりした地盤の上にあるということでした。浦安では大地震特有の液状化現象が起きたと後に知りましたが、上流の田園調布のあたりには、古墳の遺跡などがあることからわかるように、太古の昔から、六郷土手のあたりまでは、すでに陸地であったのでしょう。

まあ、温かかったこともあって(そんな気が今はします)、足どりは、ピクニックか散歩のようでした。

六郷土手から、蒲田行のバス路線沿いに北上して……。

途中バスはくるのかしら、と思ってバス停で、どのぐらいの間隔でバスがくるのかを確認していると、80歳になっていようかという男性が、30分以上待っているのだけれど、まだこない。
「歩くには、少々年でね」
と話しかけてきて。まあ、何もあわてることはありませんよ、と私は答えています。家が壊れている様子も、火事も起きていないようですから……。

家々に目立った損傷はなく、日本の家の多くが、知らず知らずのうちに地震に備えていることに感心し、地震工学の専門家の、飲み仲間の仕事ぶりが、生きているのだろう、とも思ったのです。

やがて、矢口渡など、小さな商店街を通りましたが、すでに平静を取り戻していて、毎日の夕暮れの商店街と、さほど変わりはないように、私には見えました。

ただ、ときどき、歩いていても余震は感じていました。ただ、本震よりも余震が大きくなることはないのが、地震学の基本ということを思いだして、連れに話したりしていたのです。

ただ、交通機関は、つまり、幹線道路は、鉄道が止まったままだったので、大渋滞していました。

この日、小さな子供二人を迎えに行った知人の……知人は、新宿区から江東区まで、車で11時間かかったと、これも後に聞きました。歩いた方が早いのですが、乳飲み子を2人抱えて、歩いて帰るに帰れず、避難所にいた家族を夫が迎えにいったと……。きっと、多くの人がそうだったのでしょう。

私の家は目白ですが、偶然、一人で篭もって仕事をするために、大田区に、誰にも知られていない(妻は知っていますが、部屋にはきたことがありません)風呂なし六畳ひとまの仕事場を借りたばかりでした。ともかく、仕事場まで戻って考えよう、というのが、地震の後、歩きながらの……私の考えでした。

生活道路ともいうべき道を北上している、私たちが歩いている道の交通量はいつもと変わりありませんでしたが、途中で横断した第2京浜は大渋滞でした。信号待ちしている川崎発五反田行きのバスは満員。乗っている半分以上は高校生のようにも見えましたが、この路線をどのぐらいの人が知っているのかはわかりませんが、鉄道ではなく、バスが走っていることで、帰れるのだなあ、と感心したことは確かです。道路は、多摩川を渡る、各所の橋を中心に渋滞しているのも確認できました。

結局、余震が続くのがコワイから、というので川崎から帰ると、私の仕事場よりも歩いて10分以上は手前にある、連れの家でゴハンを食べることにして、武蔵新田の商店街で買い物をしました。私は武蔵新田の町が大好きで(愛する作家坂口安吾が暮らした町です)、ここに仕事場を持とうと探したのですが、なかなか格安物件が見つからず、徒歩で30分ほど北に仕事場を借りています。武蔵新田で私はパンと豚肉を購入。もちろん、この時には品薄とか買いだめとか……を考えている人はいないようでした。

友人宅に寄ることにしたのは、揺れが、食器棚から食器が転落、割れていたら……一人では、悲しくなりそう……というのもありました。一方、私の仕事場は、机をひとつ置いてあるだけで、後は本があるだけですから、崩れたとしても、たかがしれていて、まあ、安心……ということもありました。

結局、食器棚からは何一つ落ちているものはなく、何一つ割れてはいませんでした。

ニュースを見ながら食事。すでにこの時には津波によって壊滅的な被害であったこと。マグニチュードが9、0に変更されていたと思います。

それはインドネシアの地震と同程度の地震……あの時も大津波の被害が凄かったことを思いだしました。

結局、私は楽しく酒を飲み、ひと仕事を終えたばかりということもあって(それもあって競輪に行ったのですが)、心地良い酔いとともに眠ってしまいました。目が覚めたのは11時ぐらいだったでしょうか

交通機関が止まっていたので、家に帰るには5時間ほど歩かなくてはなりません。ならば、夜中の3時ぐらいに、大田区を出て、と考えていたのです。

再びニュースを見て、女川の町が、津波によって連絡がとれていないことを知り、そして原発があることを思い……最悪の事態を、私は想像していました。

妻に、この時点で「メルトダウンの可能性あり、娘を海外に脱出させること、考えたし」というようなメールを送っています。

私はケイタイメールを全く利用していないので(指が太くてうまく打てないからですが、ハハハ)、人生初のケイタイメールが、それでした。

この時点では、危険なのは福島ではなく、私の中では、女川の方でした。情報がない……のは、危険な可能性を秘めている、と思ったのです。

連れの部屋から、仕事場に戻ったのは1時過ぎ。再び少し眠ってから、歩きだそうと思ったのですが、池上線が動いているのを確認。すでに通常なら終電の終わった時間でしたが、終電時間を遅らせて運行している様子です。これならば、始発は動いている……と考えて、徒歩での帰宅は止め、始発で帰ることに変更して、その日は眠りについたのでした。







3月12日早朝。

目が覚めたのは6時半ぐらいだったでしょうか。

多摩川線の鵜ノ木駅まで約10分の道のりを歩き、途中、交番の若いおまわりさんに、「朝は、何も起きていない?」と聞くと、「何もありません」と、キビキビした答が帰ってきて、とても気持ちよかったのを覚えています。

現場でできることをする……が警察の仕事ですから、何も起きていないのは、良い印です。
 
私は、駅近くのコンビニにより、朝日新聞を買い、お気に入りの「麺直販所」が、すでに店を開けていて、できたての「ヤキソバ」を店先で乾かしている(そうだと思いますが)のを見て、「ヤキソバ」を4人前買ってから、改札を通りました。

朝の電車は、土曜日の早朝ということを考えれば、かなりの乗客数で、多くの人が朝を待って、帰宅していることがわかります。

ともかく、新聞をむさぼるように読んでいたのですが、ふと気がつくと、誰も新聞を読んでいません。
新聞の情報よりも、ケイタイを通して重要なニュースを見つけようとしているようです。

多摩川駅で乗り換え。

3人組だったか、4人組だったかの若い人たちが、「気をつけてね」と声を掛け合いながら、それぞれの自宅(だろうと思います)に帰るべく別れる様子が、何かお互いに「元気を確かめあっているようで」とてもステキでした。

渋谷へ、そして、副都心線で渋谷から我が家のある雑司ヶ谷(雑司ヶ谷と目白は徒歩にして10分ほど)に向かいます。
副都心線は渋谷、池袋間の折り返し運転で、池袋以北の鉄道状況が、まだ安定していないか、復旧できていないか……を、示していましたが、順調に帰宅。

それまでの間に、新聞を読んでいる人を、私は全く見かけることもなく。
新聞の価値は……それほど失われている、ということでしょう。

すでに前日、安否確認はしていて、元気なことをわかっていましたが、こんなに早く帰ってきたの……とは妻の言葉でした。

家には、妻と、京都の大学に行っている娘のボーイフレンド。恋人? ではないみたいでしたけど、その手のことを詮索する気は全くなく。

彼は、春からは大学4年生で、東京に就職のための研修というのか、「アタック」のために3月中滞在するので、私の部屋(ベッドと本棚と机で、もう手イッパイの小さな部屋ですが)を彼に譲っていたのです。

若い人が就職のために、マンスリーマンションを借りる……ような、無駄な金を使ってはいけません。ただ、あまりに狭くて申し訳ないとは思いながら。

で、地震の時、彼は荻窪。妻は神保町の会社(出版社勤務)にいたそうです。

神保町と我が家は歩いても1時間ちょっとですから、落下物などがなければ、特に帰るのが大変なわけではありません。

が、彼は東京の地理は不案内。荻窪から青梅街道を歩いて新宿、それから我が家まで、3時間ぐらいはかかったようです。全て徒歩。私の感覚ではかなり遠回りですが、迷うことを考えれば、正解でしょう。
帰宅したのは夜中の12時近かったといいますが……そうそう、この時、私は彼とは初対面でした。

娘の方は山形の鶴岡に……「合宿」で免許を取るべく滞在中でした。

いろいろあるけれど、ともかく、皆無事で、元気でした。

彼の就職の話などを聞きながら、昼食にヤキソバを食べ、地震の直後とはいえ、平和な土曜日ではあったのです。

津波のニュースを見ながら(この時は名取川を津波が上がっていく様子が放映されていたと思います)、津波のことを思っていました。

若い頃、三陸を旅していた時のことです。

どこだったでしょう……田老だった気もしますが、別の町かもしれません。

突然、海岸線に、かなり上に(角度ということです)、見上げないと全景を見ることができない防潮堤に驚いた時のことです。

地元の人に三陸は、津波の被害にあっているから、こうして、5㍍以上の防潮堤が立っているのだよ、と説明を受けたことがあります。
通りすがりの人に聞いたのですが、何だか信じられないほどに高い防潮堤に私はとまどっていました。
多分、彼が受けた津波は……チリ地震の時のモノだったのでしょう。

津波といえば、都が消えてしまった……と私が考えている場所もあります。

津軽に十三湖という、シジミの産地として有名な場所があります。

「津軽じょんがら節」という映画のロケ地になった、静かな村です。
私が旅した当時は(80年前後です)、鍵形の木造の橋があるばかりでしたが、その村に行って、地図を見ていたら、その人口から考えると不思議なほどに神社仏閣が多いのです。
だから、私の想像は……津波による都の喪失……失われた都を忍ぶような小さな村……として現在もある……。浦島太郎の話の根底には、こんな悲しさがあるのかなあ、と思ったこともあります。

十三湖の、私のイメージは、津波によって消えてしまった都……です。ひょっとすると古代、渤海などの大陸との交易港があった場所であり……と。その後、奥尻島が津波の被害にあった時、津波が町を消し去ってしまったことから、改めて思ったのですが、今回の津波でも、また同じことが起きたのかと思うと、それは悲しい……人間には抗いようのない自然の力というしかありません。自然への敬意がいくらあっても、こうしたことは、人類がある限り起こり得る……。

何より、あの、そびえるように高い防潮堤を乗り越えて波が来ていることを、私はショックに思っていました。

でも、今は何もすることができないなあ、とも。少々残酷だけれども、私は思ってもいたのです。

阪神大震災の直後だったでしょうか。時期ははっきり覚えていませんが、鎌倉市の防災計画の小冊子を作る手伝いをしたことがあります。
防災計画を市民に……という企図は優れたものと思いましたが、鎌倉市には「地震に対する」ということでは、致命的な欠陥がありました。もし、津波が来たら、その司令部となるであろう、市役所も消防署も水没して話にならない……のが現実であったからです。

だからといって、地震対策のためだけに、市役所を移転する……は、誰の理解もえられないもの……と、少々悲しく笑った記憶も……。ただ、現在の状況は知りません。

私の津波に対する想像は別にして、土曜日は平和に……。夕刻、ボーイフレンドの彼と妻の3人で散歩に出ました。何を話したのか……多分、とりとめのない話です。

近所の、田中角栄邸(もちろん、亡くなられていますが、表札はそのままです)の前を通り、日本女子大の脇を抜け、菊地寛記念館に、と思ったのですが、すでに建物は新しくなっていて、記念館はなくなってしまったようでした。
その後、今は料亭になっている、サンカの作家である旧三角寛邸の前を通り、日本女子大の寮の前を。すでに春休みなのでしょう。寮には誰もいないようでした。

ふと、裏通りに、できたばかりの小さな古本屋を見つけて、3冊ばかり。

馴染みの豆腐屋にも寄り、地震で換気口(雨樋のようなモノ)を支えていた金具が外れてしまって、と教えられましたが、まあ、余震が、昨日以上ということはないから、ゆっくり直せばいいじゃない、当分は大丈夫だよ、とおカミさんと話しました。

地震が起きているのに、平和な日々というのもおかしいのですが、夕飯はたけのこごはんにしようか、とたけのこを買って、1時間ばかりの散歩を終えて帰宅したのは、夕刻の5時ぐらいだったと思います。

帰ってきて映し出されたニュースは、その時、福島の原発が水素爆発によって、崩壊していることを知らせていました。

女川ではありませんでした。

私の想像は、一気に加速します。

その直後から、放射能汚染の問題もあり、誰も近づけないでいるようです。もし、本当に近づけないままであったら……。

状況は……私の中ではメルトダウンを想定していました。多分、3日以内に、その時はそう思いました。

チェルノブイリについては、少し学びましたが、私自身の仕事の減少などもあり、仕事場を(現在ではなく前の……はかなり大きい仕事場だったのです)撤収した際に本をかなり売ってしまい……チェルノブイリに関する資料は、ほとんどなく……。ただ、メルトダウンすれば……500㌔離れた(正確には800㌔だったのですが、この時は錯覚しています/注・キエフは実際には200㌔離れていません。私はこの部分で、何度も誤解をしていたようです)キエフでさえも汚染された記憶がよみがえっていました。

東京までは200㌔少し。

日本はロシアとは違って狭く、人口密度は何十倍でしょう。

被害の想像はつきませんでしたが、放射能は、得体がしれません。チェルノブイリと何も変わらない状況が目の前で始まっている、と思ったのです。

ヒロシマの原爆によって……多くの人が亡くなりました。私は、この空爆を、アメリカ政府による虐殺だと思っているのですけれど……。それは、ドイツのヒトラーがユダヤ人を殺したのと全く同じだと思っています。もちろん、ヒトラーがスペインのゲルニカを空爆して以来、全ての空爆が虐殺である……とも思っているのですけれど。戦争の話は……誤解を呼びそうだから、まあ、私はそう思っている、ということだけにしておきます。
こんな風に思っている日本人は、きっと少ないのでしょうね。

原発事故の恐怖……には、実は慣れています。

父の生家は、日本の原子力研究の発端ともなった東海村(茨城県)の原子力研究所から10㌔程度しか離れていません。いつだったか、東海村で放射線漏れ事故が起きた際……たまたま本家(父の生家)の伯父から野菜が送られてきたことがありました。

ウマイ野菜です。
伯父がいろいろ考えて、とは思いませんが、何か「原子力」への踏み絵のように思われました。思い返してみれば、原発には、いろいろな効用がある(記憶は薄らいでいますが、コバルトを照射すると、作物が早くできるとか……)と幼い日に見学に行った時に教えられたけれど、結局残ったのは電力を作る、という一点に過ぎませんでした。

東海村での、その時の事故のことは、よく覚えていないのですが、避難勧告が出されたような気もします。記憶はあやふやです。が、放射線漏れの量でいえば、大したことはなく……野菜はおいしく食べた記憶があります。

原発に関して、私は基本的には反対ではありません。日本が、現在のような国家になっている以上(電気をたくさん使っている……ということです)、エネルギーを原油だけ頼るわけにはいかないのは、仕方のないことです。事故がおきるのも仕方がないと思っています。問題は、事故を最小限にいかにくい止めるか、ということです。

過去に高速増殖炉「もんじゅ」の事故がありました。プルトニウムを燃料にした発電……に関しては大反対です。フランスでは(もう、多くの人が知ったでしょうが、電力の8割は原子力に依存しています。ただし、その電力は、日本とは異なり、隣国にも輸出されていることは重要な違いだと私は思っていますが)、プルトニウムが暴走(核融合です)を始めてしまったら、誰も止められない……と、私は聞きました。だから、この方法はフランスでは、実験しただけで、実用化されませんでした。フランスで危険で見送られたものが、日本では安全なわけはない……と私は考えます。日本の技術は安心で、フランスには、その技術がない……などということは、間違いなくありえないことなのです。

なのに、日本ではその方法を使っている……その説明は「安全だから」でしたが、暴走した時には……地球がなくなるかもしれない事故につながりかねない……と私はずっと思っていました。

それに敷衍して、プルトニウムの問題を……私は考えますが、まあ、ともかく、この時はプルトニウムについてはともかく、ウラニウムによる原発だって、メルトダウンしてしまえば、東京に被害が及ぶのは明白であろう……という考えでした。想像でしかありませんが、もし、メルトダウンしていれば、東京では……現在の5~10倍の放射能を観測したに違いないと……思っていたのです。

もちろん、原発、放射能による健康被害には、よくわからないことがあります。

作家の大下英治さんは、確か爆心地から50メートル以内での被爆を証明する被爆者手帖を持ってらしたと思うのですが、元気で作家として活躍されてらっしゃる。

一方、原爆の投下直後(とはいえ、1週間以上は経っていたでしょうが……)にお見舞いに行った人は急性白血病で亡くなったりしています。政府は、そうやって亡くなった人のことを、原爆によるもの……とは認定していなかった、とも記憶しています。

だから、東京は危険でない……と言われれば、その通りだというしかないのでしょうが、しかし、微量の度合はどう考えれば良いのか難しいのですけれど、私は政府が安全と言い続けていた倍以上の数値になれば、いつでも危険になりうるだろう……と想像しています。
今すぐ……ということではありません。長い年月の間、そこに暮らしていれば、身に危険が降りかかってくるようになる……と思っていたのです。

まあ、これについてはこの後にも書くことになるでしょうから、このあたりにしておきましょう。

恐怖は、それだけではありません。

私がこの時思ったことは……娘を助けたい……という一念でした。

私は52歳、それほど、命を大切にしなくては……という年齢ではありません。もし、メルトダウンをして、東京が汚染されたとしても、多分、それはジワジワとしたものでしょう。ただ、そうなれば、そのことを多くの人が知れば、人々は逃げ出すだろう……そして、そこにはパニックが生れる。それは……世界の各所で起こっている現実を思えば、暴力的なモノです。私一人なら……何とかなるでしょう。が、娘には……脱出を無理ではないのか、妻と3人で逃げるのも無理、そう考えていました。

日本人はパニックを起こさない民族だから……という人がいるのなら、私は関東大震災の際に起きた朝鮮人虐殺は何だっのか、といいたくなります。あの事件は、読売新聞を現在のように大きくした正力松太郎が、まだ、警察にいて、公安部の課長をしていた時に流した情報によって起きたと私は考えているので……パニックが起きないなどとは考えられないのです。情報に操作されて、日本人は朝鮮人を殺しているのです。

その時、私の中に生れたイメージは、多くの死でした。

地球最後の日……をテーマにした映画のように……。

私は……きっとこの時、エゴイストになることを拒絶しようという、一般的には、人間が常識として持たなくてはならない拒絶すべき感性を捨てていました。

娘を安全なところに、パニックに出会わないためにも逃げなくてはならない……と思いました。メルトダウンしましたが、ともかくチェルノブイリは「核」が地上に四散してはいても、爆発することもなく、核融合が暴力的に地上で暴れまわることもなく終結して……あの結果でした。それ以上の悪い事実が起こらない……と誰がいえるのでしょう。
もちろん、ヒロシマのように爆発しないことは理解していました。でも……。

子供たちの多くは甲状腺ガンになり、甲状腺を摘出しなくてはならなくなる……はチェルノブイリを知っていれば、間違いなくおきることです。それは、500㌔半径で(私はそう考えていました)。それから身を守るには、放射線を受ける(量は少なく……であれば、人は毎日放射線を受けているのは十分に承知しています。が、その値はどこまで許されるのでしょうか)をできるだけ少なく、し続ける必要があると、私は考えていました。

甲状腺ガンについて強く思うのには、理由があります。実は私は、甲状腺を持っていません。

幼い日に、ある経緯から、甲状腺の摘出手術をしているからです。だから、甲状腺を摘出しても生きていけることは知っていますが、でも、それは人に勧めるような事態ではありません。多くの医師は、私を見たくない……という態度でした。手術をしたのは関西で、医師を関東で見つけなくてはならなかったからですが……どのように育つのか、医学的な前例は、ほとんどなかったからです。幸い、私は良い医師にめぐりあい、彼を悩ましながらも、普通に成長はしました。

私の想像は、こればかりではありませんでしたが、水素爆発のニュースを見て、私は「すぐに娘を迎えに行く」と宣言して、若い知人(飲み仲間です)に車を貸してもらえるように、電話してくれ、と妻に頼みました。

彼の電話番号を私は知らなかったのです。

実は、私は車の運転が大キライです。

日本で運転したのは8年前に九州で、無理やり300㌔ほど。その7年ほど前に伊豆半島を取材で、やはり300㌔ほどだったでしょうか。

フランスに暮らしていた06年には、スーパーまで10㌔というような田舎にいたので運転をしていましたが、東京では運転する必要もなく……ずいぶんと運転などしたことがなかったのです。

この時、交通機関(東北地方の)は、鉄道の多くは止まっていました。いつ動くのか……国鉄時代から比べれば、保線を極端に減らしたJRでは、鉄路の安全を完全にするまでは時間がかかります。                            。          
                             
高速道路は緊急車両用に、封鎖しているというニュースもあります。

天気予報は温かいことを示していましたから、雪が降ることはないでしょうが、積雪している可能性はあります。

車を借りる時、「私は、明日には帰ってくるけれど、ひょっとして、原発が最悪の事態を引き起こしていれば、そのまま、京都に行ってしまうかもしれない」と言った記憶があります。

車を持っている若い友人の母親は(やはり、飲み仲間なのですが)そんなに焦らなくてもいいじゃない、と言っていましたが、パニックになって、身動きできなくなってしまうのがコワイ、と説明して……

自宅そばから車を出発させたのは午後7時半のことでした。

友人はカーナビを設定してくれましたが、私が、日本で運転をしていた時代にはカーナビなどというものはなく、動かし方も修正の仕方も全くわからず、どうも、設定とは全く違うルートを私が選択していたので、ひたすらに、次を右、次を左……という具合に、運転している間中、言われ続けるさとになったのです。

3月12日夕刻、東京発……山形・鶴岡往復

3月12日深夜

東京の街は、渋滞していました。いや、比較対象を知らないので、それが渋滞であるのかどうかはわかりません。それでも、その日は日曜日でしたから混んでいたといって差し支えないでしょう。かつて通いなれた道(長く埼玉に暮らしていたので)でしたが、しっかり迷い。結局は戸田橋を渡り、それから左折してかつての大宮バイバスに向かいます。

現在では上を高速が走っていることもあって、かつての距離感覚とは大分違った感じでしたが、国道17号を北上、少々走れるようになったのが熊谷を、すぎたあたりでした。
道路が渋滞している箇所には、必ずガソリンスタンド。ガソリンだけはマンタンにしておこう、というのは庶民の智恵だったのでしょう。

深谷から前橋、渋川へと向かいますが、相変わらず、カーナビは「目的地まで12時間かかります」と叫び続けているばかりで、いくら走ってもその時間は変わりません。

それでも、町には人がいて、暗い感じはなく、地震による被害は少ないことがわかります。
渋川の町で給油。友人が、ハイオクで……と言っていたのでハイオク。記憶では138円ですが、15リッターほどしか入りませんでしたから、見事に借りた時にはメーター通りにマンタンであったのでしょう。この先の道路事情を尋ねて見たのですが、答はよくわからない、でした。すでに11時近かったのに、お客は次から次へと現れます。

さらに少々進むと、関越自動車道の下を通過……アレ、一般車が乗れるよう……ということに気がつき、Uターンして、高速に、渋川インターから高速に乗ることになったのです。

それまで、途中、国道は何カ所か空いているところがあり、瞬間的には80~90㌔ぐらいで走ったものの、他は50㌔前後で走るのがいいところで、信号にやたらとひっかかるし……という状況でしたから、ちょっと安心した気持ちになったものです。

フランスでは、50㌔というのは市街地周辺の制限速度ですが、日本は東京-大阪間に、ずっと家が立っているように(これは多くのヨーロッパ人には信じがたいことなのです)、人口密度が極端に多いことがわかります。一般道がほぼ、50㌔ぐらいでしか走れないというのは、フランス人には信じられないでしょうね。

なぜ、友人の車を借りたのか……は借りている車なら無理はできない……という制御が働くだろう、ということもあったのですが、すでに疲れているのはわかり……。レンタカーであったら、無理をしていたでしょうから、わざわざ友人から借りたのは正解といえるでしょう。
高速は、一般道とは逆に空いていて、100㌔程度で、まずは巡行。道を知らないこと、道路の凍結の可能性もある、と思っていたから、スピードを出すのを控えていました。

谷川岳パーキングに寄り、チェーン装着について考えるものの、ともかく、トンネルを越えなくてはわからない(トンネル内はチェーンを離脱する必要もありますし)……と、トイレに行っただけで。

道路は、物流の(特に近鉄のトラックが目立ちました)大型トラックが多く、それらをゆっくりとパスしていきながら、進みます。こうやって、深夜に働いている人がいるから日本経済は成立しているのに、彼らの給料とか生活を、考えたことがあるのかしら……と、経済的に強者になった人々のことを思います。強者たちは、彼らと話したってしかたがない……と思っているのではないか……とも。

トンネルを越えると、くだり坂になることもあり、スピードは120㌔までに制御しながら(くだり坂で凍結していたら最悪です)、進むものの、渋川までとは打って変わって順調で、ナビも、到着時間を続々と更新して、朝7時半には到着……と、それまでとは一変、少し元気が出たものです。

トンネルを抜けて景色は雪景色に変わりましたが、路面の凍結や積雪はなさそうだったこともあり、大型トラックを次々にパスして行きます。乗用車は少ない……。

そうなれば、早い……わけですが、燕あたりのパーキングに入り。タバコを一服したいのに、自販機はタスポなしでは(タスポを私は持っていません)買えず、妻からの電話が10本以上着信していたので電話。

「もう、ニュースだと大丈夫そうよ、明日には鉄道も動くというから、帰ってくれば」と、実にノー天気なことを言っています。

私には、その答が楽観的なモノとしか思えませんでした。確かに、このまま行っても、朝7時に到着では、そのまま、引き返すことは体力的にはできない。が……交通機関が明日万全になるとは思えない。

結局、もう少し進んでから……と考えて、高速を新潟豊栄で下車。疲れたので、モーテルで仮眠を取ろうと思った時には1時を過ぎていました。カーナビは7時10分前後には到着する、と叫んでいましたが……。

インターを下り、コンビニに。止めていたタバコですが、ストレスがタバコを必要としています。
コンビニの周辺には24時間営業のマクドと、ラーメン屋。
新潟県の道路マップを購入。山形県の地図は見つからず。高速の道路表示によれば、会津方面(津川から先)は交通止めになっていて、地震の影響があったことがわかります。

何か食べたいと思いながらも、食欲はなく。コンビニで泊まる場所はある? と聞き、バイバスを、さらに北に走ります。車で10分ぐらい……と教えられた道。道路には、ほとんど車の姿はありません。インターから下りて見たのは、酔っぱらってタクシーで下りてきた中年男性が一人、若者のカップルがふた組。これも日曜の夜半としては自然なのでしょう。

バイパスを北上、新発田市内に入ると24時間営業のビデオショップなどが、開いています。地方も24時間営業の店がある……は、田舎であることを考えると、少々の驚きではありました。ヨーロッパの田舎なら、まずありえない……日本全国東京化現象のひとつで、悪いことではないでしょうが、やはり、あまり理解できない……自分がいます。
ホテルを見つけ、フロントで空室を確認。6000円ぐらいだったでしょうか。

部屋に入ったのは2時少し前。テレビをつけてニュースを見るものの、私を明るくさせてくれるニュースはなく、明日、このまま帰るべきなのか……と思いながら、3時過ぎに就寝。

翌7時。
娘からの電話で起こされました。

今日も電車は動かないと、合宿免許の人からは言われ、と娘は言っていました。

どうしよう……という声は、かなり不安気に、私には聞こえます。
娘がどんなことを考えていたのかはわかりません。

迎えに行くから、教習所にはいかず、(宿舎は鶴岡ですが、教習所は余目)宿舎で待つように指示。10時半ぐらいには到着できるはず、と答えて、電話を切ったのです。

ホテルで朝食、納豆でゴハンを2杯。普段と特に変わった様子もないホテルの食堂の朝食風景でした。

そのまま、バイパスを北上。新発田の後、村上で、鶴岡への道は山の道と海岸線の道の2つのルートがあることから、安全なのはどちらだろうと考えながら。
山道は、会津への道が通行止めになっていることを考えると危険だろうか、とか。ガケ沿いを走る(そのはずです)海沿いの道の方が、地震によって落石が頻繁になり、危険だろうか、とか。

朝の道は空いていて、巡行で70㌔ぐらい。

結局、選択するよりも、いつのまにか山の道に入っていて……山の道を。
雪が深くはなっているものの、温かいこともあって、凍結の恐れは感じることはなく、日陰にのみ注意して……。

しかし、高速ではないのと、2車線の道路でのトラックに遭遇すればスピードは上がらず。途中、追い越し可能な場所は少ないものの、何台かパスするものの、結果的には50㌔程度の巡行速度でしか走れず……。

日本海が見え、しばらく走ると鶴岡。ホテルが見つからず、日曜日の午前中に、ひなたで溜まっている中学生に聞くがわからず……。宿舎名はホテルでも、合宿免許の人だけが宿泊客ということもあって、湯野浜の(鶴岡の温泉地です)人は、ほとんど知らないようでした。
昔、朝日ニュースターの仕事で、隣の「鶴岡市大山」を取材して歩いた時のことを思いだし……、湯野浜にも泊まったことがあります。

大山は、自民党の代議士、加藤紘一の地元なのですが、町の人々は、彼の父親がトンネルを作ってくれたことで、生活が一変して便利になった……と感心していて、政治家は、それぐらいダイナミックに変えてくれないと……の恩義が、今も加藤紘一を絶対的に選挙で有利にしている……と聞かされたのは、その時のことでした。

フランス人ならば、恩義で息子に入れ続けるなんてありえないでしょう。一度や二度ではないのです。10度以上ですから。

ともかく、ホテルに入り。

ホテルの巡業員の女性に聞くと……北の余目では停電もあったけど、ここはなかったので、揺れましたけど、何も変わらない……と平穏な答。世間話の合間に新聞を読むも、明るいニュースはなく。情報はゼロと言っても良い状況です。

娘と娘の友人も(東京を出たときには、友人は、そのまま、合宿して教習所に通うと聞いていたのですが、やはり、私が迎えに来て、知り合いのいない中、たった一人で合宿して通うのがイヤだったのでしょう、一緒に帰るというので)同乗することになりました。

ふと大山に寄ろう、と思ったのですが、道に迷い断念。

娘の話では、数日前までは雪で道路も塞がっているところも多かったのだそうですが、今は路面に雪はなく……。

結局、来た道を戻ります。

二人を乗せているので安全運転を宣言して。

途中、胎内という町の、「道の駅」に行くものの、食事するところはなく、「胎内」カレーなるものを、車を借りた友人のお土産に購入しました。

村上と新発田の間で昼食。午後1時半ぐらいだったでしょうか。回転寿司屋に入ったら、娘の友人は生魚がダメだというので……違うところに……と言ったら、大丈夫という……。かわいそうだったので、タバコを吸うのに(止めていたタバコを再び吸うようになっていました)外に行き、タイヤキを買うと、つぶアンもダメ……と悪いことをしました。

回転寿司店の先にモスバーガーがあったのですから、そちらにすれば良かったのにねえ。

どの店でも、地震の被災者を心配しているのはわかりますが、いたって平穏。このあたりは被害がなくて良かったね……という感じに思えました。

ニュースを聞こうとラジオをいじるのですが、どうにもうまくいかず。

新発田で農協系のガススタンドで給油。

新発田から高速。新潟からは120㌔ぐらいで、順調。

フランスは、一般的な高速道路の制限速度は140㌔だったと思います。まあ、ゆっくりしか走れない車に乗っていたこともあって、通常は120㌔ぐらいでしか走っていませんが、一般道でも100㌔ぐらいで走っていましたし、日本で運転しているのと比べると、はるかにスピードに慣れていることもあり……だから、通常は運転しないのですけれど。フツーに走っていて(日本の車も道路も世界最高水準なのに、高速が100㌔、時に80㌔制限というのは、私には理解不能です)スピード違反になってしまいますから。
まあ、世界的に見ての常識と日本が時にかけ離れているのは……世界水準にしようと……政治家が全く考えもしていないということでしょう(全員がそうだとはいいませんが、ほとんどがそうでしょう。制限速度は、まだ、日本の車が100㌔出すのが大変だった時代のまま……なのですから)。

谷川岳パーキングに到着したのは4時ぐらいだったでしょうか。トイレ休憩。
そこは、トンネルを作った時に出るようになった湧水を引いていて、中年の男性がポリタンク3つだったかに入れて車に積んでいます。そういえば、国鉄に勤めていた友人が、国鉄で「谷川岳の水」というのを販売した……と送ってくれたのは、今からおよそ、30年前のことでしたっけ。
平和な日曜日の光景……。

群馬側に入り、少々疲れていることと、次第に車が増加したこともあって、90㌔での巡行に変更。下り坂をうまく高速ですり抜けている技術は私にはありません。

途中、事故車でパトカーを2台。日曜日の午後としては車が多い気もしましたが、観光帰り(そんな車は少なかったでしょうけれど)の渋滞と思えば、納得する程度の混み方で。

谷原インターを出て、東京に入ったのは夕刻6時半ぐらいだったでしょう。それから、板橋の娘の友人宅へ。所在地がよくわからないので、何とか娘の友人の言葉を頼りに……。人が多くて道が狭い……。30㌔以上は、私にはだしようがない道なのに、制限速度は40㌔。人が歩いている道路の速度は……なぜか、車がエライと考えていた40年ぐらい前と変わらない……カトリーヌは、とても不思議に思うでしょうね。道路事情を見れば、ヨーロッパなら20㌔制限だろうと思うからですが……。

ともかく、娘の友人を送り、そのお礼にとビールをワンケースいただき。
都内の、ガススタンド渋滞は、この日も続いていて。
セルフの安い(多分そうだと思いますが……)スタンドには、どこも長蛇の列。私の方は、川越街道沿いで、給油待ち2台というスタンドを見つけてマンタンにしました。

そのまま、自宅に戻り、友人の駐車場に車を収めて。

若き友人から、これからどうすれば良い……と聞かれたので、どんなことが、これから起こるのかはわからない、ほぼ1日、ニュースを見ていないので、これから考えるのだけど、最悪は海外まで逃げてしまった方が良い事態……どうする?
 
そんな私の言葉に、「まあ、そこまではありえない」と思ったようで……それは……と友人は口を濁していた記憶があります。

当然の返事でしょう。
この時点で、私の頭の中には、すでに海外脱出がありましたが、そんなことを考えている日本人は、稀でしかないこともわかっていました。

この時の私には、何もわかっていないのです。ただ、すでに、私の中では原発事故が最悪の状態で推移していく……という予測はありました。

もし、水素爆発をしている原発に誰も近づけず、火災、メルトダウン……。その時点でチェルノブイリの事故と、ほぼ同じことです。が、それで、本当に終わるのかが……実はわからない。

暴走して(核融合が制御不能で、原子炉の外側で)、核融合を続けるなら、それが、飛散する可能性はないのだろうか。
少なくとも原発に使われている燃料の、エネルギー総量は、ヒロシマの原爆の100倍では効かないはずです。いや、1万倍かもしれない(このデータに関しては、未だに情報として流れていません)とすれば、福島原発から、約200㌔しかない東京への被害は?

友人には……ニュースをこれから見ながら考える……だから、そんなに心配するな……とも言ってわかれたのですが……。

自宅に戻り、妻が作ってくれたグラタンで夕食。日本では一般的なグラタンは、フランスでいうグラタンとは少々違っていて、私は、カトリーヌに「グラタン・ジャポネーズ」と作ったことがありましたっけ。

07年の冬、私がブルゴーニュに暮らしていて、あるプロジェクトのために、方々で、フランスのアーティストを口説こうとしていた時のことでした。アーティストである、カトリーヌと、息子のローランがやってきて、アンコウ鍋を作ったら、「肉」がキライなローランがうれしそうに、「ウマイ」って言ってくれたことを思いだしながら。

アンコウといえば、水揚げの日本一は北茨城だったはずです。福島原発を思うと、アンコウや、鵜飼の鵜(これも北茨城から福島にかけての地域で捕獲しているのです)が、当分絶望的だろうな、と思うようになったのは、鶴岡から帰宅した時ではなかったかもしれませんが、つい最近でもなく。多分、地震から4~5日の時には、私の脳裏の中にあったはずです。

この日、メールで、カトリーヌから、「我が家はあなたの家の3人の滞在するスペースがある」。それが朝と夕刻に2通。
ありがとう……と返信。でも、今は何もわからない……とも。

夕食の席で、危険は全く去っていないようだ。ともかく、京都には行こう、状況次第では海外へ、と提案すると、ボーイフレンド君は、就職へのメドがやっと立ちそうなのに、と言いながら、かなりあきれ顔で拒否の姿勢。妻は仕事があるのに。娘は、海外に逃げるなんて、絶対にイヤダ、だって友達がいるもの……と泣きながら答える……に、一人クレージーな人間(私のことです)に困惑しているのは……私にもわかりました。

深夜、家では娘も、妻も、娘のボーイフレンドも眠ってしまった後、私は眠ることができず、ニュースをぼんやりと見続けていました。

新発田のホテルを7時に出てから、私は眠れないまま……その夜を過ごすことになるのです。

相変わらず、新聞にも、テレビにも、情報はありません。
原発事故に関するニュースはもちろん、まだ、津波の被害にあった多くの地域の情報すらない……そんな状況だったと思います。











3月14日未明、東京の自宅で考えていたこと。

水素爆発を起こした原発は、月曜日未明になっても、放置されたままでした。それ自体は大した事故ではない。いや、普段なら大事故だが、それで終わるのならば、大したことではない……ことは承知してはいたのです。

が、何もしなければ、間違いなくメルトダウンです。

余震は頻繁に続いていました。

スマトラ島でのマグニチュード9の地震の時……最大の余震は、3カ月か4カ月して……マグニチュード8クラスだった記憶がよみがってきて、それも、かなり震源は離れていた記憶があります。本当はどうだったのだろうと、その時は思いながら、漠然と記憶をたぐりよせようとしていました。

余震は……同一プレート内でおきる……のが常識ですが、それも本当だろうか、という疑いも、この時には生れています。隣のプレートでは、地震学の専門家たちによって、巨大な、東海沖地震の可能性を示唆されて長く、東海沖地震を起こすプレートに、何らかの刺激が与えられて、そちらでも地震が発生したら……非常識であるとは承知でも、疑いを消すことはできないでいました。プレートの接触部で地震が起きても、それは新たな巨大地震の引き金にならない……とは机上での学問でしかないように思えたのです。

しかし、東海沖地震が起きた時に、被害が間違いなく受けるだろう浜岡原発は操業を停止しようともしていないようです。

どうにもクレージー。

同時に、福島第一原発は何の対策を講じる気配も感じられませんでした。

情報はありません。

原発は津波に襲われて、機能を停止している。女川原発は無事に停止していることを知らされたのも、日曜の夕刻から月曜の未明にかけてのことだったように思います。

安心できたニュースはそれだけ。

同時に、メルトダウンが始まれば、関東にいる人間は一気に西に逃げるだろう、とも思っていました。

だが、それとても、政府は公表するのだろうか。しないで黙殺しようとするのだろうか。そんな風にも思いました。

人々の行動を……私は、そう思っていましたが……。その後の日本人の行動を見ていると異なるようにも思われるのも確かです。それについては改めて書くことになるのでしょうが、私には、東京中の人間が脱出する……時の状況が目に浮かんでいました。ともかく、関東圏の車の所有者の多くはマンタンにしている。車での脱出は可能なようだが、実際に、地震当日の道路事情を思えば、まず困難。それぞれの脱出径路である橋を「危険」だと政府に封鎖されてしまえば、動くことはできないはずです。

ここで、私の脳裏では、日本政府ではなく、国際基準の政府の動きを思っていたことは確かです。どの国が基準と言われても困るのですが、一般的に政府が行なう行動については、いくつかの規範があるものだからです。

だいいち、人々に不幸をもたらしたもの……は常に法(狂った法律であっても)によって保護されているわけですから。

ヒトラーがユダヤ人を虐殺した時でさえ、それは法律によって施行されているのです。

一般的に、メルトダウンによって、関東中が(それは、一瞬の出来事ではないにしろ)避難しなくてはならない状況になれば、政府は(日本の多くのマスコミが、常に政府を国と表現していますが、国と政府は異なると私は考えています。これは、多分憲法解釈の問題にまで行く話で、詳しくは説明する必要はできませんが)人々が避難することを容認しないように思えていました。

ちなみに、私が政府イコール国である……と、日本の社会に暮らす大半が考えるようになったのは、およそ10年ほど前からのことだということは付記しておきましょう。それまでは、今よりも露骨ではなく、政府イコール国とは考えていなかったように思っています。

さて、人々の避難を容認しない場合、一般的に政府が講ずる方策は「戒厳令」と言われるものです。
全てが政府の容認した行動だけを求められる命令。政府が「戒厳令」をひくことは法律的には許されていなことですが、すでに政府はあらゆる法律によって、その行動の多くを保護されていると私は考えています。だから、健康被害が著しいことが起きても、それは伏せられ、人々は移動することが許されない、放射能による障害は……爆発、極めて近距離でなければ、被爆により、直接的な外傷は起き得ないことを思えば、情報を制御することは難しいことではありません。誰も、バタバタと倒れて死んでいくわけではないからです。それは、徐々に5年、10年といった歳月をかけて、起こりうることだからです。

ただ、戒厳令は……一般的(世界的に)な政府が取る、国家が危機に陥った時に起こりうる行動の基本でもある、と私は考えていました。

60年安保の時、デモ隊に向って発砲されなかったのは、当時の防衛庁長官赤城宗徳氏の英断であって、反政府活動に対して、発砲するのも、多くの政府関係者の選択肢の中にあったことを歴史は示しています。
この時も、発砲を容認することが、政府高官の意見の大勢を占めていたのは、当時の回想録などを読めばわかることで、それを拒否したのは、赤城氏の、たった一人の英知であったと、私はずっと考えています。
それでも、樺美智子さんは亡くなっている。

なぜ、発砲しなかったか……は、当時与党であった自民党という政党が、世界的に見て、特殊な政党として成立していたことに所以があると私は考えます。

田中角栄らが首相を務めていた時代まで、自民党の上部には、昭和初期、世界大恐慌の余波を受け、人々が貧乏で……米騒動を起こさざるを得なかった時代に、貧乏な人々をどうしたら救えるか……と考えた青年たちの未来に、当時の政治家がいたと、私は思っています。そして、自民党の代議士には、そうした経験者が多く、いや、私は、そのほとんどが行動の基本に、社会的弱者と言ってもよい、貧しい人々のことを、まずは考える政治家が多かったと思っているのです。高級官僚から政治家に転身した以外の自民党の国会議員には、コミュニストとして生きた経験のある人物も多く(読売新聞の渡辺恒雄もそうですね)、庶民をどうしたら豊かにできるか、を考えていて、実際にコミュニストから転向した人々が、与党の政治家として存在していた。実際に、圧倒的な政府の力の前に敗れた人々ではあったけれど、戦争が終わって、「貧しい人」を救いあげる……を考えていた人々たち、でした。実際に元コミュニストが大臣でいたというのは、先進国では(当時は発展途上国と言ってよかったわけですが)、極めて珍しいことだったとも思います。残念ながら、首相には誰もなっていないだろう、とも思っていますが……。

自民党が一党独裁体制(これを私は異常だったと思っていますが)を続けられたこと、庶民が支持しつづけたことの理由は、この一点によってのみ説明ができますし、一党独裁では、あったけれど、「独裁」政治特有の庶民を見限った状況にはならなかった……不思議な政治が続いていた、そう思っているのです。

ただ、そんな構造は、少なくとも小沢一郎の世代が台頭してきた時代には、失われていたと思っています。そこに存在しているのは、ほとんどが2世、3世の政治家だからです。そこには、かつて、貧乏人のために(後に政治家になった人々は、かつては未来を持てない人生を歩いていたわけです、ある人物は旧帝大を出たけれど、職がなく、再び大学に、それでも職が……鋳物工場の経理だった……と聞いたのはいつのころだったでしょうか、エリートとなるはずの経歴でも、社会に拒否された現実の中に生きていました)、が、弱者の中にいて、なにごとかを考えたような……人物は、もはや存在していないのです。

カトリーヌに、日本の不思議(一党がずっと政権を持っていたのは、共産主義国家を除けば、日本だけだろう、それは先進国の常識にはない)を聞かれるたびに、私は、こんな説明をしてきましたね。

そして、日本人は、世界で唯一(多分、唯一だろう)沈黙の中で、物事を理解し合える人々なのだ、とも説明してきました。

フランス人と暮らしていて、15分沈黙していれば、間違いなく、彼らはパニック状態を(表面的にはそうでないにしろ、その深層では間違いなく)起こすことを私は知っています。
沈黙している人物が、何者かわからず、極端にいえば、突然ナイフを持って、襲ってくるのでは……とさえ思ってしまう……のがフランス人。多くのヨーロッパの人々はそうだと私は考えていますが……私が、夕食の席などで沈黙していると、イライラしてくるのも、私にはわかります。

私は、時に気軽すぎるぐらいの感じでメルシー(ありがとう、というよりも「どうも」ぐらいの感覚ですが)と答えるのですが、だから、メルシーウィなの、メルシーノンなの、とカトリーヌに、何度も言われています。行為に対してありがとう、という場合、日本人は全てがウィと考えているのに、フランス人はありがとう、と言った後に、でも私には必要ないと考えれば、ノンと答えます。つまり、メルシーノン。そして、それは失礼なことではありません。私もそうでしたけれど、日本人には、少々難しい感覚です。

フランス人はおしゃべりであるから、私には、極端な例として浮かぶのでずが、沈黙していて平気でいられる……不思議な人々と、日本人のことを、多くの国の人々がそうだと思っているのは間違いないでしょう。

が、日本人は、その沈黙の中から、次の行動を見出すことができる……不思議な人種であることも、カトリーヌに、そしてフランス人の友人たちにも何度も話しています。それを、私は日本人らしいと思い、誇りにも思ってはいても、フランス人と仲良くなるためには、極度に下手なフランス語でも、話さなくてはならない……が、ずっと私のフランスと付き合っていくにあたっての……行動の根底にはありました。
それこそ、話題が見つからなければ、今日一日の話を……まるで、小学生の絵日記のように話し続けたとしても、それだけでフランス人は安心しますから。

が、日曜から月曜日の未明の……福島原発に対する無言、全く情報のない状態を、つまり政府とマスコミに寄って生み出された沈黙を……日本の人々はどう解釈していたのだろうか、が、私にはわかりませんでした。世界中の政府は、この一点でも不信感を持ったでしょう。それに対して、日本人は、何も考えなかったのでしょうか……。政府を国であると錯覚している人々にとって(政府の行動と国としての最終的行動が一致するとは限らないと私は考えます)、国は決して間違いを犯さないと洗脳されて長いからなのだろうか、とも思いました。
しかし、政府は何度も間違いを犯しています。それは、一般社会でいえば、犯罪と言われます。ただ、政府は法律によって過度に保護されているので(これは世界中が同じです)犯罪と呼ばれないだけです。
サリドマイド禍がそうでした。肝炎訴訟もそうでした。

水俣を思えば、足尾鉱山を思えばわかるとは思います。自らの土地で、生れてからずっと生きている人々には、新たな世界を見出すのに、それなりの勇気が必要です。勇気を持たなければ、人間は羽ばたくことができないのです。それは、別に日本だけのことではないでしょうが、その「沈黙」が、水俣で、多くの人を苦しめたまま、放置されたことも確かだと思います。日本人の、私が誇るべき長所も、時には欠落したモノとなる、ということです。
足尾鉱山で……起きたことと、原発事故によって、危険にさらされている人々と(避難を求められた人々だけではありません)何の変わりはない、と、私は思います。

原発の事故が危険であることはわかっていても、ただ、どうすることもできないと思って、じっと沈黙していたのでしょうか。それとも、全く情報ともいえない無意味な情報を流す政府を信じて、すぐに危険はない……と安心していたのでしょうか。私には見当も、実は今もついていません。

そんなことを考えながら、夜中にニュースを、私は聞いていました。

深夜、2時過ぎた頃、唐突に「計画停電」のニュースが流れ、そのニュースは私の頭を占拠し、一気にいろいろなことを妄想させました。想像ではなく、それは妄想であったと思います。

疑問は……なぜ東海道新幹線だけは平常ダイヤなのだ……ということでした。

情報を小出しにしてパニックを抑えたい。その間に重大情報を流す? ということも考えました。停電していれば、テレビを見ることはできません。
 
いくつかの情報から実体を予測する……という行為を、バカにするならば、バカにすれば良いと思いますが、それは、私の思考方法のひとつです。

冷戦時代、情報のほとんどない東側の国々で起きていることを新聞記事だけで分析していた人物がいたこと、私は思っていました。名前も忘れてしまっているのですが、共産国家から、隣国などには、何の情報も発信されませんが、なぜか、人事情報だけはわかるものです。また、全く政治とは関わりのないようなニュースなら、時には流れてくることもわかるでしょう。それらの、わずかな情報だけで、国家に何が起きているのか……を分析していた人物は……ヨーロッパには存在しています。日本でも、北朝鮮問題に関しては、その手法が使われています。そして、ヨーロッパの、彼の解析した情報は、あらゆる「情報部」が得てきた情報よりも的確であったことが知られています。その点でいえば、多くの記者以上に、情報だけで、真実を捕まえていた人物といえるでしょう。いつだったか、ヨーロッパのある国が、その功績を表彰したい……と、授賞式に、彼を招待した時のことです。彼は、はっきりと授賞式への出席を断っています。それは、表彰の際に国外に出なくてはならない。その間、新聞が読めなくなる……からだと聞きました。なぜなら……新聞を読み続けていないと、すぐにわからなくなってしまう……というのが、彼の答であったのです。
彼は新聞をはじめとした情報の虚偽ですらわかったはずです。
時に情報には虚偽のモノが入っています。

情報が少ないなら、少ないなりに真実はどこにあるのか……を考えなければならない……のは、彼のような、国家の情報部……同様の仕事をしている人物ばかりではなく、ジャーナリストとしては最低限の頭の働かせ方である……と私は考えています。
私の経歴はエロ本とヤクザ雑誌と、スポーツに健康と言ったところで、政治や経済にはコミットしてきたわけではありません。ただ、観察しつづけている限りはジャーナリストだと思うし、新聞と同程度には未来を見ることはできます。実はあらゆることを観察するだけで、ウソにだまされることもなくなります。ヤクザ雑誌をやってきた時には、ウラの世界の情報が、経済の動きを先に見せてくれたという経験もあります。東京で激しくおきた「地上げ」(その裏側で起きていて不動産会社とヤクザと呼ばれる人々、そして政治家、銀行などの、行動の連鎖です)が、お伝えできる顕著な例だと私は考えます。

私が逃げなくてはならない、と思ったのは、突然やってきた「計画停電」に起因していました。この時、即座に原稿を書くわけではありませんでしたから、実際に……精度をあげるためにすべき追加取材のようなことは全くしていたわけではありません。

ただ、突然言い出した「計画停電」の動きは妙だと思ったのです。実際にはただの電力不足だったのは、今になってはわかることなのですが……。

この時、すでにアメリカのクリントン国務長官から、原発事故の「冷却剤」を輸送することの打診を、政府は必要ない……と断ったことは新聞が知らせていました。

この情報から考えられることは……日本には原発事故に対するチームがあり、必要ないということ。この部隊がいるとすれば、自衛隊しか、ありえないわけですが、それを持っているから断った、と考えて良いのか、私は迷いました。ただ、自国のことは自国でできる、というメンツを優先して断ったとも考えられるからです。新聞、テレビといったメディアが知らせていた中から考えたことは、自衛隊の部隊が動いている様子のないことでした。原発事故に関する被害対策の現場部隊じ存在しているならば、全く表側に情報として流れてこないのは不思議です。

国家謀略のための組織ではありません。

それは、私に悪夢を思わせました。原発という事故の決定的な事実を、認識していない。もしくは、すでに危機的状況で、米軍(冷却剤を持ち込むのは米軍になるでしょうから)の関与も、もはや間に合わない……という考え方です。

メルトダウンに近づいた状況、放射能が振りまかれ、火災が発生する(繰り返しになりますがチェルノブイリがそうです)。その時、誰が近づけるのか、という問題です。もし、自衛隊に、特殊部隊が存在しているとして、彼らのほとんどは放射能を浴びるわけで、多くは生命の危機と対峙しなくてはならない。時間が経てば経つほど状況は悪化するはずだ……というのが私の考え方でした。そこから思い至れることは、その出動の状況を見極めている……とは……私には思えなかったということです。それは、私に東京からの逃亡を強烈に意識させ、行動に移らなければ、と強迫させていたのです。

私にはこの時、政府が、この事態の意味を完全に認識していない、としか思えませんでした。

原子炉の事故が生じた場合の認識、緊急であるとはいえ、行動の選択は難しいものではありません。常に冷やすことができれば、放射能が漏れたとしても、それが大きな問題であったとしても、一時的な緊急避難によって、短期間で安全は戻ってくるでしょう。核融合を暴走させてしまえば、危険は加速度的に増し、避難期間は、半径500メートルで30年は無理になる……と考えていました。

今、原稿を書いている時点ですら、その状況は灰色であるとは思いますが……。

月曜日の未明、情報は冷却ができずに、原子炉が熱せされていることを示していました。
新聞記者は、東京電力からペーパーを受けとって、そこから質問をしています。
でも、私の知りたいことを質問する記者はいない。なぜなら、私の知りたいことのカケラでさえも、東京電力からのペーパーには書かれていないでしょうから。

私が知りたかったのは。

今、いったい何度なのだ、ということです。
推定値であっても知りたいと思いました。それを信じる信じないは別にして……ですけれど。推定値であっても、その報告の仕方から、それが虚偽であったとして……と推測することができます。

だから、それが一番知りたかった。

300度なら、私は、何も心配せず、じっくり修復に当たれば良い、と思ったでしょう。

2000度だったら……まだ、紙一重でつながっているのだろうか、と考えたでしょう。

核融合で上昇する温度の上限はどこなのだろう。

6000度にはなるはずです。
1万度を越えることだってあるでしょう。そうなれば、もう、人類は、誰も冷やすことができない……それこそ、決死隊で、死を賭した人間だけが作業をする(いや、させられると言った方が良いでしょう。)ことになります。それは、誰も冷やすことができない……ということではないか、そう私は考えていました。

でも、やっぱり、温度に関する情報はありません。

すでに放射能は原子炉周辺で振りまかれているようです。
その放射能が、東京に到達する日時は?
事態が悪化すれば、加速度的に放射能量は増え、到達する時刻は早くなる……は、難解な物理学を学んでいなくてもわかることです。
少なくとも、やがて健康を害するだけの「毒」は到達するだろう、と思っていました。

報道は、政府の意図をくむように(沈黙の中で、政府の都合が悪くならないように理解しているように――それもまた、日本人ならではの感覚であります。もし、政府でなく、国民の沈黙を理解しようとしていれば、報道は変わっていたでしょう)、あらゆる情報をシャットアウトしていたように思えました。

それは、太平洋戦争に至る、軍部が力を持つことになった最初と何も変わらないように、私には思えます。

そこに行なわれているのは犯罪(少なくともロコーキョー事件は軍部の陰謀だったのですから)の可能性を、報道が示唆していれば、太平洋戦争に至ったのかどうか、私は疑わしいと考えているからです。でも、当時は、政府からの圧力が強かったという情勢はあったとしても、軍隊、政府の側の沈黙を、とても、よく理解して……報道されなかったと……。

沈黙を理解して……何もいわない……日本のプレスの本質が、原発事故によって、露骨に出ている、とも思いました。

いつだったか、健康雑誌をやっていた頃、「ガンの科学研究所」というNPO法人が、ガンを治した1000人集会というのを、調布で開いたことがあります。主宰責任者だったのはNHKの報道ディレクターとして、ガンのルポなどを手がけ、自らもガンにかかってしまった人でした。ガンは免疫力が劇的にあがれば、カンタンに治りますが、免疫力をあげるというのは難しい。
カンタンに説明すると免疫力をあげるために、自分に気持ちの良いことだけすれば良いのですが、カンタンそうで、自分に気持ち良い、というのは人によって異なります。
だから、ガンに効いた……という薬品以外の物質が、人によって違うわけです(たとえば、アガリクスや椎茸といったキノコ類に始まり、気功、アロマ、落語……いろいろありますが)。
その集会には全テレビ局、全新聞社が来ていましたが、たったの1行も(1秒もです)報道されることがありませんでした。
大手の記者の人々にとっては、権威である医師が認めていないこともあって、「ウラが取れない」、そして、何かワケのワカラン集会のようだ、という理由で報道されなかったのです。

ガンを治した人たちは、みな、ネットやら口コミで「治し方」のヒントを知り、勝手に治してしまった人たちでした。誰も、先生、ガンは治りました、主治医に報告もしていない……状況でもありました。

問題は、そんな組織があって、笑い話かもしれないけれど……という形ですら、報道されなかったことです。
自らの価値基準にないものは黙殺したわけです。
大手マスコミの記者が、改めてガンについて考えたわけではないでしょう。(もちろん、ゼロだとは思いませんが、大半は日々の仕事の中で忘れていったはずです)

この件に関して、くどくど説明しても仕方ありませんが、問題は黙殺してしまう……報道の現実を知ってほしくて、この件について、少し記しました。

原発事故に話を戻します。

この時、私が考えていたのは、危険な状況に東京が陥った時、その行動のフリーハンドを持っていたい……ということだけでした 計画停電によって、移動の自由を政府と東電の都合のいいように「停電という名のもとに」制御されれば、実質的に移動の自由は極端に制限されます。戒厳令ではないにしろ、現実はそうなるだろう。

ならば、その前に出た方が良い……、自由のあるうちに、と思ったのです。

すでに、東京に娘を連れてきた時には、頭の片隅に、海外脱出がなかったわけではありませんが、娘たちの強烈な反対に、危険を承知で、しばらく東京にいなくてはならないのだろうか、とも私は思っていました。
ただ、娘のパスポートは、京都にあり、本当に海外脱出を考えなければならない時には、やはり、身動きがとれなくなる……ことは思っていたのです。
だから、何としても、京都に行き、娘がパスポートを持っている状況にしなくてはならない、と考えてはいたのです。

もし、海外脱出するのならば、妻、娘、娘のボーイフレンド氏の抵抗を跳ね返す必要があります。私は娘を助けるために、その一点で、エゴイストになることを、全く恥ずかしくもなく……行動しようとしているのではなかったのか……と自問していました。

それは、彼らを東京から、ともかくも移動させる……ということでした。

妻は、この日、大事な会議があると言っていました。娘は京都にすぐに帰るのもイヤで、もし、帰るのなら、妻(つまり母親)と一緒でなければ、とも言っていました。
せっかくの春休みを父のために免許合宿を断絶され、せめて、東京にいるのだから、友達に会って……と思っていたのでしょう。

でも、私には最悪の事態……。それは具体的ではありません。が、後の現実を思えば、この時、原発から30㌔前後にいる危険と同程度のことが、即座に起こるように思っていたと考えています。

それらを妄想と笑っていただいてもかまいません。

しかし、政府は、この時点では、何もせず、報道で出てくる関係者の顔は、一様に困ったという顔をしていました。即座に危険だとは言ってはいません。しかし、危険でないのなら、もう少し会見での表情は柔らかくなるはずですし、余裕も出るものです。だから、会見の中味を、私はほとんど信用できない、と考えて聞いていました。何もしないのに、危険でない……というのは、物事を「騙る」ということでしかありません。

確かに、政府がかつて、騙ってきたことの多くは、実際には、私自身の危険にはならないことばかりではあったのです。しかし、今回は違います。

しかし、私自身のことではなくとも、政府が起こしてきた過去の、法に守られた「犯罪行為」、法律は彼らを保護するために、常に更新され続けている、と言ってもよいでしょう。そして、彼らは法律に守られた状況で、私に危害を及ぼす可能性がある、と思ったのです。

まさか、政府中枢にいる政治家が、東京から逃げ出すとは思ってはいません。ただ、自らの危険が、即時ではない場合(放射能汚染とはそういうものです)、逃がすのは家族ではあっても、彼らは逃げ出さないでしょう。さすがに、そこまでは、私は疑ってはいません。
人間には、職業的な最低の責任というものがあるものです。

法に守られた犯罪行為? などあるのか。そう言われる方は多いような気がします。

支払い始めた時には60歳で払われると言っていた年金は、65歳になった……のは、民間の会社で行なっていれば詐欺行為だと私は考えています。その事例は、いくつも、皆さんの中で思い浮かぶことがあるのではないでしょうか。繰り返すのですが、水俣、阿賀野川、肝炎、薬剤エイズ……。政府がやってきた「犯罪」同様の行為をあげるのは、毎年のニュースを見直してみれば、いくらでもあるのです。
政府の誤りを、時に、ものすごく気をつかって、裁判所は、何らかの結論をだす。

裁判所と政府が結託しているのでは、と考えられる判決も多いのですが、なぜかと考えるならば、ずいぶん昔のことですが、「自衛隊」違憲判決以来、裁判所は政府からの圧力で、裁判所として独特の「国」としての指針を示すことができなくなっているからです。

「自衛隊」違憲の判決を出した裁判官は、即座に「家裁」に異動させられています。以来、政府の指針と異なる判決を出す可能性のない「家裁」から動くことはありませんでした。柔らかい弾圧と言ってよいでしょう。法律とキレイごとによって解決された、「イジメ」と言ってもよいでしょう。彼は、「家裁」で、そこそこに偉くなって、退官し、すでに亡くなられています。

政府の犯罪の中で、未だに私の中では解決していない問題に、戦時中、政府によって収奪された、多くの金属(寺の梵鐘など)は、個人には返還されていないことがあります。国によって、その機関のひとつによる、政府によって返還されるべきものだと、私には思えているのですが、政府は、命令ひとつで人々の財産を奪ったままなわけで……実際にはそうとはならなかったにしろ、形式的にはボロ儲けしたままの状況です。

私は、放射能による災厄をサイレントバイオレンスだと思っています。災厄が直接的に襲ってくるのが、いつのことであるのかわからない。被ばく後(現在も東京にいる人々は、自然に受けている被ばく量の何倍もの被ばくを、原発事故によって受けているわけですが)におきるさまざまな健康障害は、時に死に至るものです。そして、その可能性と隣あわせに、娘をおいておくことには……抵抗したいと思ったのです。私は、子供と妻……そして、何人もの、私にとっての大切な人を人質にでも取られない限り、黙って死んでいくことを選択する気はありませんでした。

もちろん、すでに50歳を過ぎた身には、自らの人生が、被爆によって、3年後か5年後か10年後に死ぬとしても、それに拘泥する気持ちはほとんどなかったのですが、政府の無能(それは後で説明します)によって、娘が危険な状態になることは(彼女にも、日本中のほとんどの人にも、原発事故による被爆の責任などありません)許せなかった……だから、抵抗しよう……としていたのです。

もちろん、この時点で動き始めることは、クレージーと呼ばれることも承知していました。日本人は、一人で突出した行動を取ることをキライます。まあ、その意味では、ずっと呆れられる人生を歩んでいたことを否定はしません。が、身動きができない(交通手段が余震、新たな地震によって遮断されること、停電によっての移動不能、放射能汚染の予想以上の拡大によるパニックの発生)状況にされて、東京で娘が「死」を意識させられる事態は、私には許せないことでした。

同時に、もし、私が狂っているとして、東京を離れることで、私自身が危険ではないと感じることができるなら、改めて正確なジャッジができるはずだ、とも思っていました。

私は、「計画停電」であるにも関わらず、東海道新幹線だけは動いているのかを、強烈に疑っていました。ニュースは、突然東京電力によって発表された「計画停電」について、その地域分けを克明に流していました。突然の「計画停電」による交通網の中絶は、会社に出ようと考えている人たちの足を奪います。10時間歩いて会社に行き、10時間歩いて会社から帰る……などということはできるわけではありません。

もし、「計画停電」が続くようなら、あらゆる会社は、本社機能を大阪に移さなくてはならなくなるだろう……とも考えていました。東京は、ともかく、山の手線の内側以外は機能しなくなる……ことを指していたからです。

また、東海道新幹線だけは平常通りというのは、政府関係者は、自分の身内など……を、密かに関西に逃がすためのルートとして利用する気なのではないか、ならば、一段落すれば、突然、東海道新幹線を止めてしまうのではないか、とも考えました。これは、日本人の感覚にはないことのようにも思います。私の妄想。しかし、政府の強い国においては、その手の事象は、いくらでもありうべきことだ、と私は思っていたのです。現在の日本の政府は間違いなく、強いモノになっています。
新幹線が電力不足によって、停止する時間はないのだろうか。もし、停止するとすれば、何時なのだろう。

この手の思考では、私の中であらゆる危機の可能性を考えさせます。

東海沖地震の発生。富士山の活動……。どれも、可能性がないわけではありません。

現実に起きた地震は、多分、日本国内に限って考えれば、2000年の間に数回しかない規模の地震なのです。同じプレートといってもよい、休火山である富士山の活動が活発化する可能性を否定する根拠はどこにもないのです。わずかに300年前(正確にはっきり覚えていませんが)に宝永山を生み、その噴煙は東京に火山灰を降らせたのですから。火山灰は200㌔の距離など、あっという間に移動してくるのは、多くの人が知っているのではないですか。桜島の頂上から、30㌔より外に、火山灰が降らない……などと考える人はいないはずです。放射能と火山灰に、違いがあるとは私には思えません。ただ、薄まっているだけです。火山灰は薄まっていれば、何ミリかが積もるだけでしょう。放射能も同じです。でも、それは、到達した地点を……長く汚染します。火山灰が水で流されて(本当にそうなのか、私はよく知りませんが)、消えてしまうのとは異なります。

今なら、京都に無事に着くことができそうだが、日が経つに連れて、どうなるのかはわからない……私は「計画停電」のニュースを見ながら、そう考えていました。ひょっとすると、今が最後のチャンスではないのか、とも考えたのです。

新幹線で移動中に、大きな余震がやってきて、新幹線が事故に遭遇することすら、私は考えていました。可能性はゼロではなかったでしょう。
皮肉なものいいをすれば、原発に隕石が落ちる時のことなど、考える必要がない、と専門家が後に言っていることは、私には理解できないことです。隕石が落ちた場合、半径1000㌔以内は危険になるが、それ以上には「これこれこういう対策が取れるので」問題はない……という具合の説明ができない……人々(原発を推進していた専門家たちのことです)のように、私は、楽天家にはなれないのです。

アウシュビッツに代表される、ユダヤ人虐殺……に導かれる強制収容が行なわれた時のことも、私は思ってもいました。

逃げ遅れて、死んだ人々のことを、です。多くの場合、彼らには逃げるチャンスが、全くなかったわけではありませんでした。生き残った人と亡くなった人々との差異はわずかであったと私は考えています。

強制収容所で亡くなった人々は、最初に「そんなことありえないよ」と考えた人びとだったと思っています。いくら、ヒットラーが人種差別主義者であったとしても、罪のない人々を殺すなんて……と思っていた人たちです。

アウシュビッツ収容所のパピエ(証明書)を持っている、収容されていた娘に会ったことがあります。彼女の人生は、あまり芳しいものではありませんでしたが、私の父の証明書……と、悲しそうな顔で見せてくれたのです。わずかな遺品だったようです。彼女の父は偶然にも生き残ったのですけれど……生涯、証明書は捨てなかったようです。何かを思いだそうと……いや、忘れないでおこう、と思ったのでしょうか。

フランスでは、ピンクの身分証明書を持っていた「レジスタンス」によって、彼らの多くは救われるチャンスを得ていたことも聞きました。たが、それでも、直接的に、「逃げろ」と言うことはできなかったのです。
当時、警察官だった……ある友人の父は、町の、村のカフェで、ユダヤ人を見つけると、「おい、ユダ公、お前のイノチも明日までだな。明日には捕まえてやるからな」と、大声でどなりちして、その乱暴な、酔っぱらった勢いで喋ったようにみせかけた言葉で、「逃げろ」と知らせたと教えられたこともあります。レジスタンスではあっても、表向きは警察官だった彼は、ナチス政府寄りとなった政府の命令の下にいて、表面的にも抗えば逮捕されるわけですから、表面は従順に、しかし、智恵を使って……知らせ続けたのだといいます。

戦後、オレはレジスタンスだ、というまがいものがイッパイいたけれど……と話し、そのために、自らがレジスタンスだったということは、長く家族にも伏していたといいます。

今、東京を離れるのは、私の智恵であるのか、妄想であるのか、狂気であるのか、それを自らの中で問おうとは、この時は思っていません。

私は娘を助けたい一心でエゴイストになったのですから。

私は、未明の4時、妻を起こし、娘を起こし、娘のボーイフレンドを起こして、ともかく、京都までは、朝一番の新幹線で逃げることを無理やり宣言しています。多分、反対を許さない顔をしていたのだろう、と思います。

内心で、このバカオヤジ、と思われていたとも思っています。それでも、私には、娘を、妻を、ボーイフレンドを、ともかくとはいえ、東京を離れることが、安全を確保するためにできる、たったひとつの行動だと考えていたのです。


3月14日早朝 東京から京都へ。

東京からの脱出を図った私たちの荷物は、ごく少ないものでした。
娘は合宿免許の荷物をそのまま持って出ましたが、ボーイフレンド君はすぐに戻ってくる可能性もあるからと、衣類の類は置いていきましたし、私は数日分の着替えとパソコンだけ。後は家にあるユーロと、パスポートと国際免許だけ。なぜか、荷物は……逃げるのならば、着の身着のままでなくては上手く逃げられないような気がしたのです。命からがら逃げるのならば、助かるけれど、そうでないと……。

それは、命からがら逃げた三陸の人々への敬意も含まれていたと思います。

自分たちの命を守るために、全財産を失った人々に習った……ように、今となっては思います。危機的状況(私はそう思っていました)の時に命を助けるために、必要はモノを考えたら、何も残らなかったのです。

長く、愛とセックスの物語を書くための2冊のノートにも(本文はすでに原稿用紙で800枚書いてはいましたが、完結する際の枚数も、まだわかっていない作品ですが)、目もくれませんでした。

同時に、ルイ・マルだったか……映画の……喜劇を思いだしていました。

中味は、「世界大戦」の時にフランスの小さな村に、ドイツ軍が攻めてくる……という情報に、家族が森に逃げる話です。ドイツ軍はこなかったが、家族は必死に逃げ……恐怖のもとで、なぜか宴会まで始めてしまう……いかにも、フランスらしい映画のことでしたが、後で調べてみたら、ドイツ軍が攻めてくる話ではなく、68年の、フランス最後の革命の時の映画のようにも思いました。ドイツ軍ではなく、革命軍が攻めてくる……。ただ、逃亡するストーリーだけが浮かんだので、何が攻めてくるのかは、私にとっては大切なことではありませんでした。タイトルも思いだせてはいません。本当にルイ・マルであったのかも定かではありませんでした。

朝5時20分にはマンションを出ました。

まるで亡命者のように、誰にも、何も告げずに、でした。

目白駅まで徒歩。タクシーはアテにはならないだろうと、最初から山手線に乗って行く……と考えていました。駅までは警察署の前、学習院の脇を通って10分ほど。タクシーは、この状況では酔客などいないだろうから(まして月曜日の早朝です)、タクシーなど、空車で走っているわけはない……と思っていました。事実、駅まで空車にはお目にかかりませんでした。

ただ、途中で、山口交通というタクシーが都心に向って、客も乗せずに走っているのを見ました。迎車だったようにも思われましたが、よくわかりません。
迎車だとして、いったい、どこまで帰るタクシーなのだ、山口? とも思えたので、私の政府関係者を逃がす……という想像を補強します。高齢の家族をタクシーに運ぶ……ことは不思議ではありません。ただ、ナンバーは確認できませんでした。後で調べたら、同名のタクシー会社が埼玉の所沢にありましたから、山口ではなく、埼玉まで帰るお客を迎えにきているだけ、だったのでしょう。

偶然の生んだ「錯覚」ではありましたが、逃げる、という思いを強くしたことは、事実です。何か、微細なことも見落としてはいけない、と思って家を出たのが、ウラ目に出たといえばよいのでしょうか。

ますます東京は危険だ、と思ったのです。

目白駅は平穏でした。
新幹線の切符を自動販売機で購入。大人4人分をまとめて買えず、大人2人、大人2人と買いました。

駅員に、「どちらまで」と聞かれました。計画停電、震災からの復旧など、問題を抱えているJRの若い職員は、早朝から駅頭で乗客の相談に乗るために立っていたようです。到達できない場所が多かったのでしょう。私は「京都」と答えると、穏やかな顔で「それなら大丈夫です」と答えてくれました。現場はいつも優しい……のは日本の、とてもステキなところです。

切符を買い終わるとすぐに5時40分の山の手線外回りがやってきて乗車、車内もまた、平穏でした。原発の心配など誰もしていないように思えます。実際に、この時は原発についていくばくかでも考えたことのない人にとっては、危険な想像すらしていなかったようにも思われます。すぐに東京を離れてしまうという行動を取った私には、本当のところはよくわかりません。そのことに関しては全く観察をしていないからです。震災後、初の出勤と思われる人もいました。いつもの始発直後の山の手線のように、ひと晩中、飲み明かした(?)若者たちがくたびれて座っている姿もありました。私は、私たち以外にも、東京から逃げ出す人がたくさんいるはずだ、と思っていました。

何しろ、東京の人口は1千万人を越えています。その1パーセントだけでも10万人です。

新幹線が満員で乗るのも困るぐらい……だったら、東海道新幹線を諦めて、長野新幹線で長野に向かい、そこから京都に向おうとも考えていましたが、ともかく、指定席が取れた時点で、長野経由ということは、私の思考からは消えたのです。

駒込を過ぎたところで妻が、浴槽に水を張っていて……水を止めるのを忘れていた、と言い出しました。鍵を管理人は持っていない……。しばし考えました。しばしといっても、せいぜい1分ぐらい。妻を田端駅で下ろして、自宅に戻って止めるように言いました。いつ帰ってくるかわからないし、何が起こるからわからない状態でしたが、風呂の水を出しっぱなしにされて天井が落ちてきて被害を受けた友人のことが思いだされたのです。意味のない迷惑を他人にかけるわけには行きません。でも、この時には、いつ東海道新幹線が止まるのか、わからないと思っていましたから……このまま、二度と会えない……のか、とも思っています。そのぐらい、私の気持ちは「逃亡」するにあたって、切羽詰まったものでした。
きっと、皆さん笑われるのでしょうね。ハハハ。

東京駅着。時間は20分ほどあります。

娘とボーイフレンド君は駅弁をひとつ買って、二人で食べるといいます。二人の余裕のある行動に、ともかく安心している私がいます。売店で朝日と読売。

娘とボーイフレンドとは、私は別の車両でした。同時刻に切符は買ったといっても、2人、2人で買ったのだから、当然といえば、当然です。家を出る直前に妻が作ったタケノコゴハンのおにぎりを食べながら、新聞を読みます。

新幹線は、全く予想に反して、空席が目立っています。

私は逆に、原発の事故が怖くないの……と不安になっていました。危険でも、誰も逃げようとしないの、というのも理解できません。本当に全く逃げようとしているらしき人が見当たらないのです。

なぜ、怖くないの。その感情は、ふと、妙な想像を私に起こさせました。アメリカの精鋭部隊グリーンベレーがベトナム戦争当時、まるで蟷螂の刀で戦うように次々死んでいくのに、次々戦いを挑んでくるベトコンに恐怖を感じたことをです。……その感情に、似ているようにも思えました。

新聞を改めて読んでみても、政府は安心できる情報を何ひとつ発信はしていません。

原子炉を内側に置く建物の屋根が、2つ、すでに水素爆発して吹っ飛んでいるのに……。。

新聞には、何の情報もありませんでしたが、そこから私が感じていたのは、政府は何もできないでいる、ということでした。それでも、安心……してください、直ちに危険ではないですから……と言っているにすぎません。しかし、直ちに、というのは、2時間後まで大丈夫と言っているのでしょうか、それとも1日、3日……???
私にはそれは、ドラマチックな悲劇とともに始まるが……いつ迫ってくるかわからない……と言っているようにしか思えませんでした。
この時、建屋が水素爆発した3号機で燃料にプルトニウムを使っていることを、朝日は掲載されていたと後で聞きましたが、私は気づいていません。

新聞を閉じ、ひたすら、本当はどうすれば良いのだ……と考え続けていました。
私の行動が喜劇であり、お笑いと断言され、非難される未来だけを思おうとしていました。。が、そんな、この時点では、そんな幸福な結末がくるなどと、想像することは、私にはできません。そうなるべき現実はどこにもなかったのですから。
妻からは、メールで、1時間遅れで京都に着く切符を買ったとの報告がありました。

10分ほど、車中で微かに眠ったようでしたが、結局、すぐに目覚めてしまい、結局京都まで起き続けていました。
娘を迎えに行ってから、横になり、目を何度も瞑りましたが、全く眠れかったのです。

米原を過ぎ、草津の町を過ぎたあたりで娘たちを見に行きました。05年だったでしょうか。織田信長が建てた安土城、織田信長が焼き討ちして襲った百済寺を見に行ったことを思いだしていました。歴史の中で、織田信長の行動の、バカさかげんを確認に行ったのです。おおむね、ヨーロッパ人の宣教師には評価されていた信長ですが、それは、宣教師たちが宣教することを、信長が許したこと、また、その乱暴な様子は、他の日本の大名と違って、ヨーロッパの暴力的で強欲な貴族と重なっていたからだと私には思えます。自らの知っている乱暴な君主がいることへの安心感だったのでしょう。人間とは悲しいけど、そういうものです。その結果、歴史は彼を今も名支配者として肯定していますが……、百済寺を焼き討ちし、お地蔵さんなどの石仏を強奪し、やがて、その石を……そのままの状態で、安土城の階段に使った織田信長のメンタリティを、私は日本人として、愛するわけにはいきません。

その時、天守閣(つまりは信長の住居です)に最も近いところに暮らしていたのが森蘭丸で、階段の一番下、普通に思えば、一番の下っぱの住居であるだろう……入口のすぐそばに暮らしていたのが……後の豊臣秀吉でした。

二人は案の定、眠っていたので起こし、京都下車8時10分ぐらいだったでしょうか。
娘をアパートまで送っていってほしいとボーイフレンドくんに頼みましたが、自宅に帰りたいというので、娘に、一人でアパートに先に行っていて……と改札まで送ってから、私はホームに戻りました。

ホームの売店で、日経と毎日。

毎日に3号機にはプルトニウムを混合した「MOS燃料」が使われていることが書かれています。「MOS」って何? と思いましたが、ここで初めてプルトニウムを使っていることを私は知り、絶望的な気分にさせられています。

もうすぐ、メルトダウンするとして、チェルノブイリ級の事故は覚悟していましたが、当時の燃料棒とは、毎日の記事を読む限りでは、比較にならないほどのエネルギー量を持っていることが推察できます。

つまり、ヒロシマに落ちた原爆の1万倍、10万倍……の総エネルギー量をもった燃料が、メルトダウンする……と考えたのです。

日経には、私にとって必要な情報は皆無。

高速増殖炉でのプルトニウムに関しては、繰り返しになりますが,危険すぎるとフランスでは中止されたシステムでした。が、福島は、一般的な原子炉のはずです。それなのに、プルトニウムを混ぜてつかっている……こんな重要なことを、いったい誰が許可したのだ、とも思ったのです。プルトニウムを混ぜて燃料にしているというのは、実は初耳で、私は混乱しました。

フランスに06年に暮らして以来、行き来を繰り返していて、日本のニュースは、完全に絶たれてしまう時期が多かったせいでしょうか。時に、えっ、あの人は亡くなっていたの……ということが起きていましたから、原発の燃料に関して初耳であることは、仕方のないことですが、このことが、日本では全く問題になっていなかった(問題視されていれば、気がつかない訳はないからで、大きなニュースは確認していたからです)ことに、ショックを感じ、さらに私に混乱を与えていました。

どちらにしろ、プルトニウムが使われている(その比率は、新聞記事からはわかりませんし、エネルギーの総量を推定することもできませんでしたが)燃料がメルトダウンしてしまえば、ウラニウムだけの場合より、はるかに危険度が増すと考えるのは自然でしょう。薪一本分のエネルギーで起きた事故と、ガソリン100リットルのエネルギーを持った事故では……どちらが危険か、誰でもわかる問題……と同じことと思ったのです。

私は、この時、3号機の事故の推移(対策やら冷却やらです)で、海外に脱出しよう、と決断していました。

京都は安全、世界が一度も体験したことのない事故を前に、京都が安全、と思えるほど、私は人が良くはありません。確かに、直接的な被害は、すぐにはないでしょう。

しかし、かわぐちかいじのマンガでは彼が描いたような……少なくとも東日本は、ひどいことになる。被災民が皆殺し状況にさえなりかねない。そんなことが私の中で浮かんでいました。

自らに、何の力もないことを、悲しくも思いました。

狂っている……と言われても、情報を発信することができれば、いくばくかだって、助けることができるのに、と思ったのです。
津波で被災した人々は、どうやって助ければよいのだろう……。

一人、京都のホームで、私は悲しい気分になっていました。

その時、人々はパニックを見るだろうし、汚染が徐々に広がっているのに、身動きさえできない……のではないか。プルトニウムを含んだ燃料が、外部で四散し、その小さな破片(それでさえ、ヒロシマの原爆と同じぐらいのエネルギー量であるはずです)が、5分ごとに砕けて、1万度になろうという破片が、1時間に5メートルずつ砕け散っていく様子が、ひとつのビジョンとして、私には浮かんでいました。
だが、それに近づくことは誰にもできない……それは、原発の中で放射能漏れを起こしている状況とは全く異なります。誰も手がだせずに汚染は、劇的に拡大し、それは、荒涼たる死の荒野のイメージに私を近づけたのです。ヒロシマが原爆で焼け野原になっている風景が、東日本のほとんどを占めていく……。

狂っていると言われても、世界で初めてのプルトニウムエネルギーが、ともかくも管理された状況下で、爆発分として実験されてきたのとはワケが違います。もし,科学の進歩という名のもとに、ヒロシマの一万倍のエネルギー量が燃料棒にこめられていると考えるならば、ヒロシマの1万倍の被害……であっても不思議ではないのです。

初めて、ヨーロッパに行く時に……ヒロシマのことを聞かれても答えられない……と、ヒロシマに原爆ドームと、祈念館を訪ねたことがあります。
宿泊した安ホテルの窓からは、偶然、ビルとビルの間の、狭い空間の向こうに原爆ドームが見え、夜中に帰ってきた私の目に、悲しく映ったことを思いだしていました。

その一万倍の被害……。
もし、四散したなら、ということですが、その可能性は高いと……いや、冷却のために、1リットルの水をかけることができないでいる、この時の状況では、間違いなく、そうなる、と私は思っていたのです。

1万度を越えた、半減期が1万年の(そうだったと思っています)四散した大量のプルトニウが消える時間は、人類の歴史上で考えるなら、無限大の時間と言ってもよいでしょう。プルトニウムが、飛び跳ねるように……拡散していく……のを、どうすれば良いのか、私には見当もつきません。

一時間後、妻が到着します。。

プルトニウムのことを、私は話します。

妻は、戻ったことを、ナイスジャッジだった、スゴイ勢いで溢れていたから……と言うので、私が浴槽に水を張っておいた方が良い、と無駄な指示を出したことを謝り、同時に、新居になって、浴槽に水を張る音が小さくなったから……それに慣れていないのだから、仕方がない、と答えたと思います。

娘は、妻のことを構内の喫茶店で待っていました。一人になるのが不安だったのでしょう。私が話す言葉が、過激で、まるで地球の破滅のように聞こえてきて、イヤなのはわかります。
地下鉄で北大路まで。下車してから、娘のアパートまで徒歩15分。一年ほど前、アパートを、どこにするのかを決めるのに、京都中を娘と歩いたことが、少々懐かしい気がします。

近くの魚屋は、相変わらず感じがよく、二人で昼食を食べたそば屋は、夕刻早くには閉まってしまう……と、この時、初めて聞いたことでした。

もう、大学に進学した娘に教えることなどなく、時にメールのやりとりはあったとしても、別に何の相談をうけるわけではなく、いわば、私と娘の間は、没交渉になっていて、娘の相談のほとんどは妻が受けていました。

プルトニウムが使われていることを、絶望的な気分で妻に伝えてはありましたが、妻には、何のことだか、全く理解できないようでした。海外脱出など、この時点では、まるで考えの中にない二人を、どう説得すれば良いのかが、気が重いといえば、重かったのは確かです。が……。

ともかく、娘の部屋に、荷物を置き、ひと段落。

京都の町の人々にとっては、震災や原発事故は、遠い遠い、別の国のことのように思っているように、私には見えます。町は決して暗くはありません。

この日、午前11時過ぎ、3号機で水素爆発。

水素爆発自体で漏れる放射能量は、すぐに危険な量でないことはわかります。が、状況が問題です。

すでに建屋が水素爆発している原子炉は、この日も放置され続けていて、絶望的な会見が開かれているばかりです。そこに……2つ目の、建屋の水素爆発がプルトニウムを使っている3号機で起きました。全ての原子炉で、同様の問題が発生することを予測していた私には、もう、希望を持つための情報は何もなく、全てが鎮静化する……と言う結論を見出すことは、全くできなくなっていました。

妻の会社から電話。重要な会議は、遠距離通勤組もいるので中止したということでした。

妻は電話で娘を送っていくので……を理由に1週間の休暇を会社に通知したようです。

妻の立場が一応は地位が高い役職とはいえ閑職のような、でも、役員ではなく中間管理職でしかなく……という立場で、休むことが良いのか……に、私は、役員でナイモノは、本来ならば、全てが労働者だ。労働者が休む権利を行使するのを否定するのなら、その会社は犯罪者である、というようなことを、言ったようにも思います。

妻は、東京になど、帰らない方が良い、とだけ言ったような気もします。

妻は、購入したばかりの自宅ンション(それまで賃貸で長年住んでいたマンションの中の部屋を、彼女の退職金をあてにして、昨年12月に買ったばかりなのです)の行く末が気になるようでしたが、命ですら未来を見ることができないのに……津波で亡くなった人と、私たちも同じになる……可能性があるのに、と私は、この時考えています。

どうにも、イノチからがら逃げてくる人間が存在していることを、京都に暮らしている人は思っていなかったようです。テレビをじっと見つめる人々の意識は、東京は大変だなあ……阪神大震災の時のように、何かワテらもせんとあかんなあ……という感じに、私には思えていました。

すでに、11時に起きた水素爆発が、私の言うように海外脱出をすることも仕方がないかなあ、と思わせたようで、妻は、海外に出るとしても、仕事の電話が当たり前に受けられるように、機種変更をしたいと、四条のドコモに3人で行きます。それならば、海外にいるとは思われずに、京都に娘を送りに来ている、と社内では思われるだろう……という思惑があったようです。
クレージーな夫のいうことにも一理あるとは思ったのでしょうが、あまりに日本人的である「誰もが納得できる行動をとらなくてはならない」ということに、妻は忠実でした。

店内のソファーで私は居眠りをして、娘に起こされます。うるさいよ、と。私の感覚では10秒ほどの居眠りでしたけど、どうだったのでしょう。店内で流れているNHKのニュースには、私を安心させるニュースは全くありません。

少々政府への怒りにかられるとともに、そして、この事故に対する、対策は、これまで政府にはなかったのだ(自民党の時はあって、民主党になってなくなった、などということはありえません)ということに、私は確信を持ち始めます。

ドコモを出てから、(その前だったのかもしれません)海外脱出のために、円をユーロに替えるために東京三菱UFJ銀行に。
震災に対するお見舞いと、義援金のお知らせの掲示に、頭取が1億円を寄付……の記述に実は私は笑いました。三菱の頭取の寄付が1億円? 震災直後、原発の事故が発覚前ならば、その額は妥当だと思ったでしょう。が、原発の事故の後、すでに放射能が大量に溢れ出ている……人々への寄付とするならば、あまりに現在の状況をわかっていない、と思ったからです。
この災害に、たったの1億円が、日本の経済人の寄付すべき金額として公表されていると思ったら、私は笑えてきました。そして、その認識が情けなく思ったのです。

銀行の頭取としての寄付額は、1兆円が妥当だろうよ、とも思ったからです。

現在、この銀行が、どのくらいの額を寄付したのかを私は知りません。今は10兆円ばかりを寄付しているのなら、とてもステキな銀行だったのだね、と思うだけのことです。

私は、日本の経済(少なくとも東日本の経済)は、アッという間に完全に終了する……事態を思っていたのです。

ニュースでは、円高で推移している、という為替のニュースが流れています。日本の復興資金のために、日本企業が外貨を売り、円を買ったために「災害にあった」円が値上がりしているというのです。それは、やがてくるだろう日本「売り」までの儚い「円高という」夢の一瞬を見せてくれた、最後の日になるだろう、と私には思えていました。

私はヤクザ者を記事の主体とした雑誌を作っていました。その中で、性風俗のいわゆる、ウラ社会にいる、コワモテの男たちに、ずいぶんと会っています。右翼の取材は、私の担当だったので、ずいぶんと多くの右翼にも会いました。20代の、若い日々のことです。

その頃、大手新聞社などの……表側の報道とは全く異なる現実を、からだに染みつくほど聞かされてきています。大手の新聞社には大手の新聞社の役割があります、それは王道をいくものでなくてはならないのですが、そこにだけ真実があるわけではない……ことを知っています。ある先輩は、20代で、お前はウラの世界を知りすぎて、それで苦労するだろうよ、と言われたことがありましたが、実際に、そうなったようにも思います。

そんなことは、まあ、どうでも良いことですが、ただ、その頃の経験から、ただ、ひたすらにイノチを賭けて、何事かをなし遂げようという男たちが日本にいることを、ある種の確信を持って知っていました。

だから、原発のためのチームが自衛隊に存在している、と思っていたのです。
なのに、なぜ動かない。

菅直人の問題だ、と思っていたのです。

菅は、私が学生時代、議員会館でウロウロとバイトをしていた時、たった一人、一般人の感覚を持ち続けているなあ……と感心した男でした。
まだ、30歳前だった彼の事務所の入口には、一般人が読む週刊誌や、ビッグコミックが積み上げられていました。権威的な事務所ばかりの中で、とても清新に見えたものです。一人ぐらい、そんなヤツがいて良いと私は好感を持っています。陳情にくる人々たちへの体裁を考えている議員の入口は、どこもいわゆる型通りの権威を見せているだけで、私には魅力がありませんでしたから、その対極である菅という男をステキだと思ったのです。彼には会ったこともないし、彼を詳しく調べたこともありません。

それでも、何も動かないのは、イノチを張らなくてはできない作戦に対して、自衛隊の男たちを納得できる行動を菅が取れずにいたから、何の動きもないのだろうか、と私は、最初は思っていたのです。

原発危機脱出の作戦部隊の前で、菅は日本刀で右腕を落とせ、「お前たちのイノチをくれ、その代わりに国民は救われる、ことが収まれば、オレのイノチをお前らに捧げる」と、右腕を掲げて命令すれば、イノチを張る男はいるだろう……、私は思っていたのです。
菅はそうするべきだ。
アナクロと笑う人は笑ってください。命を賭けて働かなくてはならない任務の男たちにとっては、それで十分命を投げ出すものだ、という意識が私にはあります。そして、それ以上の言葉はないと……私は思っています。クサっても総理は総理です。
イノチを張っていた男たちは、私の知っている中にも、何人もいました。

オウム事件の時、上九一色村のサティアンに突入した時の隊長から、人生で一番恐かった、と聞かされたことがあります。
穴蔵のようなところを通ってしか入ることができない建物に、最初に突入したのは彼でした。
「サリンを撒かれたらそれで死ぬ」恐怖はあっても、オレが最初に入らなければ士気は上がらない。

士気のないところに危険な任務の成功はない。

彼からは、そう聞かされた記憶があります。

でも、命を賭けた仕事をしている男は、私などには、触れることができないほど、張りつめた精神と肉体を持っていて、さまざまに(殺し屋もいましたし……)「コワイ」人たちでした。その中でも、全く別次元の恐さを、私は彼からは感じていました。日本を救うのが、こういう男なのだ、ということも、私は知っていたつもりです。

私にはできないことです。
でも、いないわけではない、と、ずっと思っていました。

そんなことを思ったら、戦争が終わって自刃した阿南陸相のことが、私には急に思いだされていました。

疲れが妄想を拡げるのでしょうか。私の脳裏は、さまざまなことを思い、思考していました。結論がどこにいく……かなど、私にはわかりません。

先々代の講談社の社長だった野間惟道は、阿南の次男でした。何度かノミ屋で話を聞くチャンスがありました。社長ゆえに若い社員たちと話せない彼は、自社ではない編集者であった私を隣に座らせて、若い人々の気質を知ろうとしていたのだと思います。

ある日のこと、彼に、父親が自刃する前の日、生涯で、たった一度だけ、父親と一緒に入った風呂でのことは忘れないと、教えられたことがありました。

あの時、阿南は自刃したが、東条英機は生きて残ったことを思います。いつ、死んでも良いと思って生きた人間と、そうでない人間の違い。

彼から教えられたこと……「プレスという場所で仕事をするなら、どんなことにも絶対などということはない」「絶対」でくくられていることがあれば、疑わなくてはならないし、絶対などという原稿を、誌面を作ってはならない、ということでした。

迫力のある男……でいえば、私の中では、住吉会(博徒組織です)の副会長でなくなった小林楠扶(字が誤っているかもしれません、お許しください)のことも思いだします。

尖閣諸島という存在を日本人が全く理解していない時代に、彼は民間の灯台を建てています。以降、尖閣は日本のモノである……ことを世界は確定させたと言っても良いのですが、小林は、右翼結社日本青年社(ヤクザでなくても、入会することはできます、当たり前ですが)の社主として建てたのですが、多分、ヤクザの善行は記事にしない、という新聞と政府とのとりきめでもあったのでしょうか、報道されることがなかった行動でした。

でも、そんな男たちと、プレスにいた人間は、昔は親しく付き合ってもいたようです。

作家梶山季之の追悼文集に、小林は、生真面目な原稿を寄せているのですが、達者な原稿とはいえないが、誠実な文章でした。私はインタビューに同席した時に感じた畏敬の念は、彼が亡くなった今でも、私の中では変わらないのです。

彼は、任侠映画で高倉健がやった役の方にいる人だと、私には思えていたのです。

私がヤクザを知った時代は、ヤクザの転換期でしたが、結局、今のヤクザを見ていると、任侠映画と同様に、高倉健や池部良は存在しなくなり、天津敏(あくまで演じているだけで、彼はステキな人だと思ってはいるのですが)に代表される悪役(現代ヤクザ、経済マフィアともいえるでしょう)タイプばかりになってしまった気がします。

それについては、昨年の暮れに原稿を書き、ある編集者に渡してあるのですが、どうも、私の過激な記述の部分がいけないのか、「少し時間を」と言われたまま、返事は一向に来る気配がありません。まあ、それは置いておくとして。

原発事故の終息のための仕事が、イノチと引き換えにしなくてはならないのは、部隊として、放射能を学んでいるのなら、わかる話で、それでも、やり遂げなくてはならない時、命令する側の覚悟は必要だろう、それが、菅にはできないのか、と考えていたのです。

菅には、それだけの才覚はないのか……と思いながらも、彼以上の才覚があると思うヤツがいない現実をも思っていました。むしろ、鳩山や麻生でなくてよかったとも思ってはいたのです。ただ、菅にも、自らの命と引き換えにする覚悟もなかったのか、と、少々ではあっても、政治家としてステキな人物と思っていだけに、悲しい気持ちになったのは確かなのです。

自民党? 

その中にいるとは、私は思っていません。
 
「注 この項に関しては4月10日過ぎに第二稿(第一項は3月17日に書いています)を書いていますが、どうも、原発の危機に対するチームは自衛隊には存在していなかったと考えるようになっています。もし、テロで原発がやられた場合……その危機を排除するためのチームを、長く政権にあった自民党(長く与党でいた責任を国民に対して示すことできなかった、ということです)が作っていなかった現実は、そこにいた政治家の全てが、全くの無能であったことを示していると、私は考えています」

店を出て、京都の町を、少し歩き、昼食のために、ごく普通の店を探しました。その途中でサンケイを買っています。そして、経済的に儲けることを考えて成立しているチェーン店には、決して入らない、と決めていたのです。京都なら、見つけることができる……と思ったのです。

四条から北に。路地に入って、ごく普通の食堂を見つけました。そば屋だけど、定食もある店でした。

私はいかそうめん定食670円。ついてきた惣菜が何ともウマイ。こんな旨さと、もう出会うこともないのか、と、悲しい気持ちに私はなっていました。

海が汚染されれば、イカもまた、食べることはできなくなるだろう、と思っていたからです。政府にだまされ続けて食べて……イノチを落とし、苦しんだ水俣のことを、この数日、何度も思っていました。

彼らもまた、自民党に救済されることがなかったのが……現実だったのです。

ごくフツーの店は、長く営業していたことがわかります。多分、私より15歳は年上だろうと思われる、おばちゃんの笑顔に、その店を「いいと思うよ」と教えてくれた娘に感謝しました。

旨かった。日本の最後の食事になったとしても、それで満足できる味だったのです。

海外に一端場出ることを妻と娘は納得したようです。どこかの神社か寺にお参りして祈るから……という二人とは別れて、一人、娘の部屋に戻り、2時間ほど眠りました。

二人が帰宅。

3号機が爆発した状況でも、京都にいれば、当分は大丈夫だろうが、もし、危機的状況になったとして、日本から脱出するのは、時間が経てば、経つほど難しくなる、とも二人に話したと思います。

日本からの脱出は難しい……は、初めてフランスに暮らした時にパリで、佐藤亜土さんに言われたことを思いだしたせいでもあったでしょう。

佐藤亜土さんはアーティストでオランダ人の妻との間に子供が二人いたと思います。二人は日本の大手企業に就職したはずですが、現在のことは、全く知りません。すでに佐藤さんは亡くなっておられます。

彼は、日本には「海の壁」があり、そこを乗り越えるのは、実は大変なのだ……とおっしゃっていました。それをテーマにした小説は書いたのだけど、本にはならないのでねえ、ともおっしゃっていましたが、今も本にはなっていないように思います。

ともかく、海外に逃げよう、と説得している間……、私は何度も、娘に泣かれました。

日本には友達がいるのに……死ぬとしても、一緒に死んだ方が良い……と、いうのです。

確かにそう考えるのは自然にも思います。平和な国であるのなら、それで十分です。でも、原発事故の状況は、私にはそうは思えませんでした。

私には、後にカトリーヌに、日本人はストイズムの中にいないか、と聞かれた時に、否定できなかったのですが、娘もまた、この時、ストイズムの中にいたと言ってもいいだろうと思います。

私は、私の行動が、後に笑われることを求めている、と娘と妻に繰り返し言っていました。

もちろん、京都は、当分は危険ではないだろう。

だから、本当に安全か、とも思えない、とも。人々が逃亡のパニックの中に、その連鎖の中に入った時に起きることは醜悪で、女性であるあなたたちには危険でしかない……とも話したような気がします。

実際に危機的な状況になるのかどうかは、現在のところはわからない。多分、一週間で全ての決着はつくだろう。ただ、良い結果となるべき情報は、今のところはひとつもない。今後、どうなるのかも、はっきりしない。そう私は答えました。

私は笑いモノになりたい、と繰り返していました。

妻に、いつまでにわかる……と聞かれて、12日の爆発した原子炉が明日には、メルトダウンするのかどうかが、見えてくるだろう。3号機は、やはり3日後ぐらいか。温度がどのように上がっていくのか、データがないのでわからない。が、多分、私が恐れるドラマティックに悪い状況にならない……と言うことだけなら、18日ぐらいには結果が出ているだろう、と答えています。

妻は会社との連絡が多く、まだ会社に戻った方が良いと、この時点では考えているようでした。会社からの逃亡も、今なら、逃亡にならない、と考えたのでしょう。が、私の考えでは、この時点で東京に帰るのは、危険すぎました。

私は、どちらにしろ、紙の問題(震災の影響で、製紙工場の多くが東北で操業不能に陥っていた)で、現在の状況通りに本を出せる可能性はないし、編集長ではない身には、緊急に決済を求められることもないだろう……と、多分、半分は「私をだます気なの」と、妻は思いながら、私の話しを聞いていたはずです。

同時にだましてほしい、というのもあったでしょう……。

何より、現在の状況からなら、放射能汚染が確実な東京ではなく、関西圏に、編集部を移すとか、ある種の機能を動かさないと、本など出せる状況にならない……とも、私は話しました。
ともかく、いったん海外へ、と妻と娘を説得しながらも、実は、私自身も迷っていたのは確かでした。

京都なら、まだ時間的なラグはあるだろうか、と。でも、日本から海外に出るのは、国境のない日本では、飛行機か船で渡る以外には路がないのです。そこに人が殺到すれば、家族3人で逃げることなど、できようもないでしょう。

この時、妻に英会話を教えてくれていたジェニファーから、我が家に来ても良いよ、とメールが来ていることを知りました。海外に暮らす友人たちが、日本の状況は最悪である、と言っていることが……妻と娘の二人を決断させたようにも思います。
父だけが言っているのではない……と。

ジェニファーは、出版社の倒産騒動で職を失ったも同然となり、11年の1月だったかに日本を去ったばかりの女性です。その直前、我が家でゴハンを食べたことがあって、一度だけ会ったことがあります。5カ国語か6カ国語を話す(ただ、日本語は難しくて書くことができないと言っていました)……繊細でステキな女性でした。彼氏はベルリンにいるとかで、日本が大好きだった彼女は日本を離れたくないようでしたが、彼氏と一緒に暮らせるようになるのは、それはそれでステキなことだと、私には思えていました。

ともかく、1週間か2週間かでもかまわない、安全確保というだけならば、京都にいても、ドラマティックに危険なことは起きないでしょう。九州でも、沖縄でも良いようにも思います。が、最もお金がかからない滞在(交通費はかかっても、田舎の家に一人暮らしをしている彼女の家ならば、宿泊費はかかりません)を考えると、カトリーヌの家が一番だと……もちろん、平和な空気の中にいえば、日本が、本当に危機的状況を迎えた時に、私にも、何か人々のために生きることができる……何かを見つけることして、私の中にはあったのです。


3月14日夕刻、京都で。

夕刻、夕刊を探しにコンビニに出かけましたが、娘のアパート近くのコンビニには夕刊はなく、しばし、歩いて探しては見るものの、収穫なしで帰宅。その間にタバコを2本吸ったと思います。

夕飯を食べに行こうと出かけたのは7時近かったでしょうか。こんな時でも……食欲はないが、おなかは空いてくるのは不思議なものだと思います。

一人では行ったことがないけれど、ずっと気になっている食堂があるので、と娘の言う食堂へ。客は少なく、閉店間際でしたが、マジメな店主がやっている店の定食で夕飯。コロッケ定食目玉焼き付きだったか550円でした。

テレビでニュースを流しているが、特に新たな情報はありません。ただ、放置されているようにしか私には思えませんでした。

最悪の事態まで考えれば、成田は封鎖されるのは時間の問題です。すでに、ルフトハンザやエールフランスは成田発着を関空発着に変更している、という情報をどこで聞いたのか覚えていませんが、確かな情報のように思えました。だだ、この情報を知ったのは、京都でのことだったのか……、その記憶はあやふやになっています。

娘のパスポートは京都にあったのが、京都にやってきた最大の理由だったことは書きましたが、京都に来れば、少々パニック気味だと自覚していた思考が変わるかもしれない……私は思っていました。破天荒に思える行動と言われることを否定はしようとは思いませんでしたが、フランスで暮らしているカトリーヌなら、それは自然よ、と言うように思いますけれど、日本人には、突飛と言われても仕方のない行動だったのです。だからこそ、それなりに制御はかけていたつもり、ではいました。でも、ともかくは海外脱出以外に方法はない……という意識は、私の中で、ますます強くもなっていました。

車を借りた若き友人、大学4年生の姪、娘のボーイフレンドクンには、海外脱出をするとすれば、一緒に行くか、と妻を通じて打診はしていましたが、姪の言葉が一番特徴的だったと思いますが、「そんなのありえない」であったのです。それは、ある意味でショックな言葉でした。日本を離れられない理由が、私にはわからなかったからです。

本当にいいの?

私はそう思っていました。

原子炉の冷却は行なわれていない。炉心溶融が起きていることを、この日、政府は初めて認めています。それは、メルトダウン寸前ということです。

それなのに、冷やさない……は、歴代政府が、一度も、この事態に対する対策を取っていなかったことを指しているとしか、いいようがありません。フランスでもアメリカでも、あり得ない気がします。

最悪の状況が重なり合えば、やはり、東日本は、ほぼ壊滅するだろう……という思いに私は支配されていきました。

津波で被災している人々のことを思い、気持ちは暗くなる一方でした。自分に力がないことを悲しくも思います。

私が人生でやりとげたいと思っていたことは愛とセックスについて、自分なりの、長いモノを書くことでした。そのための取材に、カトリーヌに付き合ってもらったこともありました。フランス人アーティストである彼女の意見が、どれだけ参考になったことか、主人公(私の描いている)と、母が同級生だったという画家に会うことができたのも、カトリーヌのおかげでした。愛とセックスの物語を書くために、社会的な力を捨てることを……はアーティストであるカトリーヌなら、理解してもらえるでしょうけれど、自分自身の、社会に対しての力がないことを、この時、改めて悲しくも思ってもいたのです。悔いてはいるわけではありませんが、それでも、力のないことは、悲しい現実でした。

娘と妻は食欲がなく、ゴハンを残しました。

店主に残したことを謝り、京都の町にある、長くやっているだろう良心的な、小さな定食屋に、私は感謝します。最後の食事だろう……日本での……と思ったからです。昼の定食といい、夜の定食といい、普通の食堂が、こんな具合に存在していることをうれしく思いながら、店を出ました。

ニュースが絶望的なのは、私が、話し続けていたから、二人にもそう思えてきたようでした。
フランスまで逃げることは、イヤでも、韓国、沖縄までなら……という気持ちに、妻と娘の気持ちは変化していたように、この時の私は思っています。沖縄よりも韓国の方が距離的には近いのは、ちょっと不思議な気がします。日本は南北に長い国だから、そうなるわけですが……。

帰宅後、私だけ、ホテルに。朝一番の特急で関西空港に向うことを約束して、娘のアパートを出ました。

この日、枝野官房長官が、「炉心溶融」を、初めて認めたニュースに、私は、発表するのが遅すぎると感じていましたが、同時に、私にはオコチャマに見えていた枝野の顔が、すっかりと大人になっていることに、頼もしさも感じるようになってもいました。仕事は人の顔を変えます。彼が、一人(そうではないでしょうが、精神的にはそうだったでしょう)、状況を把握しながら、国民に恐怖心を与えないように、言葉や情報を取捨しているのはわかり、それには感心していたのです。だが、状況は危機的なことに代わりはない、それが、私の行動を決めていたとも思います。

東京電力、保安院の関係者の会見からは、彼らが、どうして良いのかわからずに右往左往している感じだけが……わかるのも、ツライことです。日本人の最前線の人々は、被ばくの可能性に、逃げようとはせず、そこにいたのですから。チェルノブイリの時は、最前線の労働者は、我先に去ったと聞いたことを思いだします。

「炉心溶融」の後は燃料の飛散を意味する爆発か、メルトダウンの他にはありません。

3つの原子炉が同じ状況。もし、ひとつがどちらかを引き起こせば、誰も原子炉には近づけなくなるだろう、と思っていました。この時の状況からは、ただ見ているだけ、にしか、私には見えませんでした。そうなった時に起きるパニックは、日本脱出を難しくするのは、自然なことです。女二人を連れて逃げることなど、できるのだろうか。できないだろう……と私は思いこんでいました。

もし、私が一人で生活しているのだったら、何もしないで見ていたでしょう。
人々の壮大な暴力と人間の本性を、改めてみたいと考えたような気もします。

ただ、そんな渦中に生きるのは、平和である国で生きてきた娘には無理だと私は感じていました。ともかく、娘を安全な状況のもとに……と思ったのです。

3月は、レギュラーの原稿はすでに渡してあり、27日の取材まで、特に用事がなかったことも、私に海外脱出を可能にし、そう考えさせる下地になったと思います。ただ、それだけで、出て行こうと思ったわけでもないのですが……。

予約を入れていたホテルを探すのに少々苦労して、見つけたホテルのフロントには、フランス人の4人連れが先客として話していました。親子のように見えましたが……ノー天気な会話から思ったのは、彼らは、京都なら安心と考えているのだろう、ということでした。妻のカードのポイントを使って一泊、2900円。

フランス大使が、フランス人に対して、最低でも、東京(関東)から避難するようにとコメントしたことを知ったのも、この日のことだったと思います。時にこの手の行動を日本人は、何もわからない外国人が……という具合に怒るのですが、私にはごく当然の指示のように思えています。情報がない以上、責任のある人間は最悪の状況から、この場合、自国民を救うための指示をだすのは当然のことでしょう。

同時に、政府が、在日の大使館に、情報を全く伝えていないことも思っていました。いや、伝えているからフランス大使の発言になるのか、とも思いましたが、情報がないという一点で共通しているとすれば、そこで生れた結論は、多分、私と、ほほ同じものだったと思います。単なる情報の錯綜で片づけられない危険がある……と、私は考えていました。少なくとも、新聞を通してのみ情報を得ていた私よりは、多くの大使館の方が情報を持っていたと思うからです。

フロントが部屋を間違えて……部屋に入ると、他人が使っている気配があり、再びフロントに戻ります。

部屋の鍵を誤ったようでしたが、こんな経験は世界中のホテルに泊まっていて、初めての経験です。少々呆れながら、漠然とイヤな気分になりました。

部屋に入って、ネットに接続して、ニュースを改めて見ます。テレビもつけたままで。

メールをいくつか読み。

川崎競輪に行ったガールフレンドに海外に逃げることを知らせ、同時に、せめて、西に逃げるように、と送った返事がきていました。他にも、同じようなメールはいくつか送っていたのですが……。全ては黙殺されたように返事は来ませんでした。

「みんなを捨ててあなただけ逃げてしまうの?」

そんな具合に、メールで非難されましたが、そう言われると切なくてたまりませんでした。
私は娘を安全な場所にいて欲しい、と思っただけなのです。

最悪の事態が起きた時……地震で避難所にいる被災者たちがどうなるのか……は、私には想像もできませんでした。考えれば、悲しくなるばかりの結末であったからです。
皆殺し……に近い状況になるのかもしれません。そう、繰り返し、私は思っていました。この状況を消失させてくれる情報が欲しい……と。

歴代の政府に対しての怒りとともに、もし、最悪の事態にならなかったとしても、原発事故のレスポンサビリテについても考えていました。なぜ、日本語で責任と思わなかったのか、私にも不思議な気持ちでしたが、なぜか、ロクに喋れないフランス語の単語で考えていたのです。

先進国である日本での事故、四散する放射能は、空気、海を通じて、世界に広がっていきます。その時の責任を、どう考えるのか、ということです。

グリップ(インフルエンザ)が流行するかも……というだけで、海外に降り立つ(フランスだが)日本人がマスクをしてやってくるのを不思議がったフランス人に説明した時のことを、ふと思いだします。カトリーヌの兄の、フランソワの家で話した記憶がありますが覚えていますか。

この時は、沖縄在住の医師にも、一人の患者も存在していないに等しい状況で、なぜ、こんなに騒ぐ……と質問されました。
私の答は、世界各国の健康省、保健省、厚生省と、WHO(世界保健機構)、製薬会社首脳、学会のトップの医師……は、ほとんどが「同窓会」でつながっているから……というものでした。

民主党の鳩山が党首に、小沢が幹事長になった時、何を期待したのか、あらゆることに「反」することをオピニオンとしていた日刊現代が、彼らに好意的な原稿を掲載したときには、日刊現代の会長と、鳩山、小沢が、同じ高校の出身であることを思ったものです。タブロイド版の夕刊紙は、会長が若い頃にフランスに社費で留学して学んだのだろう(多分、リベラシオンを形は真似た)……と推測しています。
当時、日本にとって、石油は大切なエネルギーで、エネルギー確保のためにいろいろなことを、日本の政府はしていました。現在日本、ニューヨーク、パリに家を持つデビ夫人は、インドネシアの大統領の第3夫人ですが、当時、その結婚は、エネルギー政策のひとつとして結婚したといわれ、その内容は「生贄」という小説になりましたが、その作家は名誉棄損で訴えられたり、しています。

日刊現代の会長は、パリに留学した際、まだ、外貨持ち出しに制限があった頃で、貧しかった日本からの留学では、滞在することにも事欠いたと聞かされたことがあります。彼はすでに知り合いであったデビ夫人のところに寄留することにして、ホテル代(アパート代でも同じことです)を節約して滞在することになります。

彼が、日刊現代は新聞ではなく、日刊の週刊誌だと、言っていたことも思いだします。

事実であろうとなかろうと、エネルギー源を持たない日本は、女性を生贄にしても、エネルギーを確保するための助けにしなくてはならなかったことも……現実ではあったのです。

沖縄の医師の質問の答で考えたこと、鳩山、小沢……のこと。それはフランスのグランゼコール(エリートが通う学校)の仲間意識に似たものだと思います。別に日本やフランスばかりではなく、世界は「同窓会」的ネットワークによってゆるやかに支配されているのは、カトリーヌなら、わかることでしょう。それは、決して悪いことばかりではないと私は思っています。外交官の全てが友情によってつながっていれば、戦争は起こり得ないからです。

原発事故を期に改めて、タバコを吸うようになっただからではないのですが、タバコの害を説く人が、猛烈な勢いで増えた日本で、放射能が、バラ撒かれているのに、それに関しては平気でいるのも、私は不思議に思っていました。放射能がバラ撒かれていても、インフルエンザの時のように、マスクをしている人ばかり……にはならなかったからです。まだ、放射能は、東京に届いていない、と思っていたのでしょうか。

もともと、タバコはローマカトリックによって、200年以上研究され、人間には無駄な体液を体外に排出する効用があるとされた薬でもありました。
同時に止血作用もあり、つまりは血を固める作用もあるから、心臓病には極めて悪いことはわかっています。私は99年、心臓発作をきっかけにタバコを止めていましたが、おかげで、高校1年でタバコを吸い始めて収まっていた鼻炎が、30年以上の時をへて復活し、苦しむことになったことは、カトリーヌに、フランスに行くたびに何度も鼻の薬をいただいた(いつも新しい薬をもらっていましたね)ものです。
 ただ、放射能汚染に関していえば、毎日、タバコを500本吸っている密室に暮らすよりも、すぐに東京の空気は汚染されるに違いない、とは考えていました。

それでも平気なの、とも思っていました。

ふと、責任ということを考える時、私の暮らすアパートの前にある中曽根康弘邸のことを思います。何代か前の首相の自宅です。

この話をしたら、カトリーヌに、あなたの家は、リッチなカルチェ(地区)なの? と質問されたことがありました。
でも、東京の大部分は、リッチな地区と庶民の地区が入り交じっていることが多いのです。
庶民の地区の治安が極端に悪くならない……ことも影響していると思います。

娘が生れた頃に暮らしていた部屋からは中曽根邸の裏がよく見えたので、ときどきのぞいていたのですが、時に庭先で書生だろう若者が上半身裸で体操している姿を見たこともあります。その姿を見ている私に……多分、中曽根夫人が少々困った顔をして頭を下げたことなども……

正月に……彼の義弟(新聞社社長です)らがやってきている時でさえ、学ぶことがある……と、書斎に、すぐに引っ込むほどに学んでいたのが、中曽根という人物でした。彼は原発について、どのくらい考えたのだろう……と思います。彼が政治家として精力的に働いていた時代には、プルトニウムを燃料に原発は行なわれてはいなかったことは知っています。でも、今の状況に対してどう思うのだろう、とも思います。まあ、彼はフランスでいえば、シラクのような人物といえるような気もします。彼は少なくとも政治家のジャッジとは何であるのか、わかっていたとは思っているのです。ただ、誰が政治家として、力を持っていた時代に、プルトニウムを燃料として、高速増殖炉ではなく、一般の原発で燃料として使われるようになったのか……私は知りたいとは思っていました。

想像はついていますが、まだ、確認してはいません。

政治家は、その責任において、東京を離れないだろうが……離れないだけで責任を取るといえるのか、とも、私は思っていました。

私の感覚は、政治家に関しては過激なところがあります。だから、歴代総理ならず、10年以上国会議員をやっているあらゆる人間から、全財産を没収、自らが、突然のことに生活を失った時のために作っている「生活保護」で生涯暮らせ、と私は考えるようになっていました。それが、原発事故で壊滅的な状況になった時に、政治家が取れる唯一の責任のとりようだ、と思ったのです。政治資金法によって国会議員の政治のための、最低の資金は保証されているのですから、政治家の生活費は……生活保護で十分だと……。

私の根本的な思想では(現実にする場合、例外を作る必要はあるのですが)政治家は、政治家となった時点と、政治家を終えた時点では、資産が増えてはならない職業である、と、考えているのです。もし、日本がそれを始めれば、世界は驚嘆し、日本は尊敬を(いくぶんの嫉妬と迷惑を各国の政治家は感じるでしょうが)世界中の人々から受けることになるでしょうが、そんな考えを持っている人に、まだお目にかかったことはありません。
それはともかく、カトリーヌは、あまり知らないと言っていましたが、全財産を没収する……というのは、オリビエ・ブサンスノー(フランスの左翼陣営の、大統領候補の一人)のような発言と笑われるかもしれませんね。それでも、被災している人々の被害を贖うには焼け石に水の額にしかならないでしょう。それぐらい、震災、原発事故の被害に会った人々の数は膨大なものなのです。

政治家が、自宅を解放すれば、1000人はいる国会議員一人あたま、3人引き取っても3千人。なぜか空いている、と言われている議員宿舎を2フロアぐらい解放すれば、200人ぐらいは収容できるだろう……とも思っていました。でも、そんな考えは、日本の国会議員の頭には、全くないようです。

フランスの貴族の政治家が、同様の状況にあったら、少なくとも、彼らが暮らす城の庭に、テントを張って、何人をも(できる限りということです/もちろん、政治的計算はしているのは当然ですが、それでも)収容しようとするのではないのか、とも考えていました。

すでに、私の頭の中では、100兆円あってもこの原発の損害は払いきれないだろう……と漠然と思うようにもなっていたのです。

健康保険というシステムも、10年後に急増するであろうガン患者の多さに、破綻する、とも考えていました。

ホテルで延々とニュースを流し続けましたが、何も芳しいニュースはありません。
日本のテレビからは、何の情報もえられないのです。少なくとも、私が知りたいという情報は放送されていません。ただ、何もせずに見ている関係者たちに、無駄としか思えぬ質問を繰り返すだけの記者会見……と私には思えていました。あなたがたは、聞きたいことはないのか……とも思っていました。

疲れているはずでしたが、私は全く眠れませんでした。

すでに3日間72時間の間、5時間ほどの睡眠しか取れていません。

何度もネットに接続してニュースを見ましたが、何も見つけられないので、絶望感だけが私を支配していることを、感じていました。

明日のヨーロッパ便の、第一便はKLM、アムステルダム行き。朝一番の特急でいけば、空席さえあれば、時間的には十分間に合うでしょう。状況は刻々と変わるかもしれず、そうなれば、どこに辿りつくのか、私にはわかりません。

娘のアパートから、ネットでチケットを探してはみても、ネットでは、3日後からしか予約ができないようでした。それでは意味がありません。
チケットは、空港で出たとこ勝負する……と二人に宣言して別れたのですが、国際空港ならば、朝一便に間に合うように、発券カウンターは開いているものだ……と説明はしましたが、その、一般的なツアーとは異なるチケットの買い方をわかってもらえたのかは……私にはどうにも、よくわかりませんでした。

大阪(関西空港)からは、長く歴史的に密接な繋がりを持っているからでしょうか、韓国便は多いという認識があり、韓国までなら、何とか行けるだろう、とは考えていました。

この日、カトリーヌには、明日、大阪から出ます。行き先はわからない。まだ、チケットがとれていないので行くのは沖縄? 韓国? ドイツ?……とメールを送っています。その言葉から、本当はどこにいくのだろう、と思っていた……とは、あとで言われたことでした。私は、カトリーヌが心配してくれたことに感謝する気持ちでイッパイだったのです。このメールがなければ、私は、京都でじっと暗く最悪にならないことを祈っていただけ、のような気もするからです。
 
パリへの直行便は、いつも混んでいるから、3人分のチケットを確保するのは難しいはず、とも思っていましたが、空席のあることを祈ってもいたのです。
空席があることを祈る……とはおかしいですか。

眠れないまま、朝5時半の京都駅での待ち合わせには、少々早い4時に、私はホテルを出ました。

まず、コンビニで月末の保険料の支払いのための、入金をしました。現在使っている口座ではなく、昔からの口座のままなので、毎月入金しているのですが……この入金が、日本で当然のことと受けいれられる月末を迎えられれば、私はピエロになれる……とも思っていました。そうなれば、日本は失われなかった、ということです。日本が今のように存在し続ける……という希望は捨てたくはありませんでしたが、日本人として自信はありませんでした。ただ、なぜ、保険料のための入金を、早朝のコンビニでしているのか、自分でも不思議でならなかったのですが……。

京の、まだ暗い町をしばし歩いて、最後の日本を思っていました。原発の危険、危機は、京に暮らす人々には、関係がないと思っているようで平穏ではありましたが……。

時間を逆算して、タクシーに乗ります。朝の4時過ぎだというのに空車が多いのは、京都の特徴なのでしょう。MKタクシー。降りる時に、これからもご贔屓に、というわけでカードを作ってくれて、もらいうけたのですが……日本でもう使うことのない……日本で受けとる最後のカード、と思いながら、財布に入れました。

朝一番の関空行きに乗るために、荷物を持った若者が何人か。海外脱出ではなく、前から予定していた観光旅行の様子で駅に次々に現れてきます。駅前のコンビニで、朝刊を探しましたが、まだ配達されてはいませんでした。

自販機で自由席を3つ。
京都発車時はすいていましたが、新大阪、天王寺で乗車、ほぼ満席に近い状況でした。

車中、娘と妻は、ほとんど眠っていました。

空港着。

出発ロビーに行き、まずはKLMの発券窓口を探しましたが、見つかりません。

発券カウンターがない国際空港? 私の常識では考えられませんが、日本の国際便利用客のほとんどが、団体ツアー客であるために、常識外の空港業務になっているのだろう、とも思いました。結局、出発受け付けのカウンターに行き、発券のことを尋ねようとすると、私より少々若い女性が、同様にチケットを探していました。
予約センターに電話をしてからでないと、ここでは発券できない、とは係員の答。
予約センターは9時から。
まだ、時間は7時台、あと2時間は決着がつかない状況で待たなくてはなりません。

女性は娘連れでした。娘の顔から想像するに、夫はヨーロッパ系だろうと推測できます。フランスに帰りたいが、予約センターにかけても、電話がつながらず、直接来た……と話しています。
私に「電話つながらなかったでしょ」と聞くので、曖昧に、ええまあ、と、私は答えていました。

「このままじゃ、日本から出られない」
切迫した気持ちが高じて、彼女の焦っているのが、よくわかります。
どうも、丸2日ぐらい、チケットが取れないでいるようです。言葉の感じからは東京から関西に移動してきたのに、それでもヨーロッパへのチケットにめぐりあえない……という感じもします。

フランス関係者からの情報により、日本は危険……であることを感じとっての、急遽の帰国とは思われましたが、彼女も私たちと同様に余裕が全くありません。脱出しないと……何が起きるかわからない……と考えている……いや、感じているように思われます。ただ、実際にどうであったかは別にして、私は決して余裕を失ったように見える行動は取りたくない……と考えていました。

この時、すでにヨーロッパへの直行便は諦めています。どの飛行機も同じようなものだろう……と思ったからです。

即座に大韓航空のカウンターに向かいました。すでに書いたように、韓国と関空の便数はヨーロッパとの直行便よりもはるかに多いのですから……。それに、ここは発券カウンターが存在していました。

パリ行きのチケットの話をすると、今日は、すでに接続便がないが、明日のソウルトランジットならばチケットはある、とのことでした。

できるだけ、日本から逃亡する様子は隠しておきたい……自分たちが逃げるためだけに……どんなにセコいと言われても、そんな気持ちで私はイッパイでした。だから、余裕がある態度でいたかったのです。

パリ往復で怪しまれないためにも、日本が、私が思っているように、私をピエロにしてくれる状況になった際の、帰国便の設定を考えなくてはなりません。最初は25日にしようとして、余裕をもう少し……と、30日帰国便を予約しました。早ければ18日過ぎ、遅くても23,4日には、日本がどこまで危険になるのか、の結論は出ているだろう、と考えていたからですが、ツアーチケットでないから変更は可の、3カ月有効のチケットでした。

ソウル経由なら、まだ何とかなりそうだ、さきほど会った女性に教えてあげたいと思いましたが、もう、姿を見つけることはできませんでした。彼女はチケットが取れたのでしょうか。私には全くわかってはいません。

ソウルまでは大韓航空、ソウルからはエアフランスで、大韓のコードシェア便でした。

1時半発の便でソウルにいくことにして、翌日10時半発でパリの便、ソウルで一泊の予定。
1人18万円でした。
日本が危機になった時の、それが命の値段でもあったのです。

初めてフランスに行った時に半年オープンのチケットで安かったので、大韓航空を利用しました。ただ、帰国便で、本来なら成田についている時間と、ほぼ、同時刻にソウルに着くのがイヤで、以来使ってはいません。その時の経験からいえば、食事は良いし、快適なエアのひとつだし、堂々としたナショナルエアであったこと思いだします。快適なエアの基準は、私は普通の人と少々違うようですから、詳しく説明する気持ちにはなれないのですけれど。
妻は旅行保険に入ると、保険会社の窓口へ。私は2万円ほどをウォンに変えました。

ウォンは0、09円ぐらいだったでしょうか。札の数字のケタが大きいので、いったいどんな物価なのか想像がつきませんが、昔のリラを思いおこさせたことは確かです。

妻と娘は、パリ便は取ったものの、まだ日本出国に悩んでいて、ソウルから戻れると良いのだけれど、と話しています。もちろん、私もそうなれば良いとは思っていますが、明日、状況が劇的に好転する可能性は、ほとんどないだろう、とも考えていました。
カフェで朝食。11時、少々早いが通関。

通関後に、私はビールを飲みました。
何とか、これで国外脱出だけはできた、と安堵したのでしょう。。
ビールを飲みながら、喫煙室でタバコ。

原発事故以来、タバコの本数がかなり増えました。これまでは一日2本とか、5本とかだったのです。鼻づまりの薬のつもりで吸っているだけでしたが、かつてピースを40本以上吸っていた時代ほどではありませんが、原発事故以来、10本以上、体が欲しています。多分、命の危険が迫っていて、心臓を保護しても仕方がない、と感じているのだろうとも思います。ストレスが強いのでしょう。

喫煙室で、私と同年配の、小太りの男が電話しているのを聞いていました。大きい声だったので、自然に耳に入り、聞き耳をたてたのです。
「これから買いつけに、今関空。(多分、行き先は韓国か中国だったのでしょう)それから、コンブの手配、しっかりやってくれよ。仙台の先方には話がついているけど、もう、注文が結構入っているからな」とケータイで話していました。

原発事故で、ヨウ素が体に満杯ならば、放射性物質であるヨウ素は、すぐに排出される……と、すでに多くの人に知られていました。当然、ヨウ素を多く含んでいる(もちろん、放射線物質を含んでいない)コンブはヒット商品になる……と、手配している「商人」がいることに、こうでなくては儲けることはできない、と思いながらも、気分の良いものでもありません。仙台だけではもたないと、韓国か中国へのコンブの買いつけに行くのだろう……と観察していましたが、もともとは他の何かを買いつけに行く予定があったとも考えられます。ただ、海洋汚染で、将来、コンブが危険な食品にある可能性を考えて……の買いつけとは、私には思えませんでした。コンブが儲かりそうだ……という商人ならでは、の先見性だけだったように思います。

妻と娘はネットカフェで、ニュースの確認をし、これからどうすれば良いのか……父親の暴走は、本当に、それで良いのか……などを話し合っているようにも思えました。

やはり、良いニュースは何もありません。
冷却にはとりかかっていません。
冷却のニュースの後が問題だと私は思っていて、冷却が始まらないようでは、話にもならない、絶望的……と思っています。

炉心溶融しているとして、原子炉の温度は何度なのだ、それを知りたい。1000度なら、まだ、手の打ちようがあるはずです。2000度なら危険水域に入ってしまっています。6000度なら、もう、未来を感じることもできないでしょう。だが、何度であるのか……の推定情報もないし、何度だと危険という専門家情報も公にはされていませんでした。ひょっとすると、どの温度だと危険であるのか……(危険はない……という前提でしか研究していなければ、データはありません)の研究もされていないのではないのか、と私は思い始めてもいました。そんなことは……普通ならありえないことでしょうけれど……。

最悪の事態……である爆発が……運良くだろうと悪運が強いであろうと……起こらないでくれれば、と願っていました。メルトダウンならば、まだ、逃げる時間はある……と思っていたからです。

私の気持ちは、すでに避難民になっていて、二度と日本に戻ってこられない……という、悲愴にも近い考えに支配されていました。そして、ヨーロッパであった、難民たちのことを思い出してもいました。誰もが、その表情の中に暗さを払拭できないでいる……人々のことです。

スイスであった22歳の女性は、ボスニア・ヘルツェゴビナから、バルカン半島での戦争の時に逃げてきました。多分、殺しあいの間隙をぬって逃げてきた……過去が私に思わせるのに十分な暗さを持っていたのですが、その暗さが最初は何によるものなのか、私には想像できなかったものです。彼女は下級公務員の仕事についてました。
長く内戦が続くエルトリアから逃げてきた黒人男性と会ったのは、フランスのカトリーヌの家で、でした。カトリーヌの娘の恋人だった彼はスイスに暮らしていて、バカンスでやってきて1週間以上、一緒にゴハンを食べました。エルトリア人の顔が、色は黒いが、ギリシャ人と全く同じことを知ったのも、その時のことでした。人々は、太古の昔から生きるために移動していたことを感じさせられました。彼は、民族的にギリシャから南にやってきたのが先祖だと思っている、とも教えてくれました。
彼も、スイスで働いていましたが、最初は姉が逃げ、姉を頼って、スイスに逃げてきたということでした。

フランスの友人の一人であるジャン・ピエールの母親も、インドシナ戦争の時に、フランスに亡命してきた避難民でした。母は、会った瞬間に「フジタ」を知っているか、と言われたので、誰? と一瞬思ったものです。そうしたら、藤田嗣治のことでした。藤田はとっても魅力的な人だった……と言われたのにも驚きました。彼女はシャンパーニュ地方の主都ランスで、藤田の隣に住んでいたのです。そのことを教えられて、なるほど、と思ったものです。
ジャン・ピエールは、顔こそオリジナルなフランス人ではありませんでしたけど(私は最初、モロッコ系なのかとも思っていました)メンタリティはフランス人だったから、彼の母が亡命してきた、と知った時は驚いたのです。
難民……の子供は、その国に同化することができるが、大人は、なかなか難しい……気にさせられる出会いでした。

まだ、あなたに出会う前、06年の春のことです。ブルゴーニュの城に一人で暮らしていた時に、作家ジャン・ジュネが養子にだされた、ブルゴーニュの、林業と製材業ぐらいしか産業のない、山奥の村を訪ねたことがあります。ちょうどお昼どきのことで、誰も歩いていない村を、一人でゆっくりと散歩していたら、ベトナム系の男性に声をかけられました。「この村で、東洋系の顔の人間がくることなど、珍しいので、懐かしくて……話したかった」と言って、私のもとにやってきました。
彼もはやり、ベトナムから逃げた難民でした。彼は家族で暮らしていました。

日本がベトナムから逃げたボートピープルを難民として認定せず、ベトナムに送り返していた時、フランス軍は船ごと保護して、難民として受け入れていたことも思いだします。90年、トロカデロの海洋博物館には、船底などを板で補強した、ボロボロの船が展示されていて、「難民が乗った船」であると……説明されていいたことも思いだされます。

フランソワーズは、難民であるのかどうか……よくは知りません。彼女のキャラクターは、私にはとても不思議だからです。トルコ系の彼女(フランスとトルコのハーフ、もしくはダブルどいうべきか、だったと思うのですが)は、チェルノブイリの事故の時、さほど遠くないところ(それがどのくらいの距離なのかは聞いてはいません)に暮らしていたために甲状腺ガンに(放射能の影響でなったと考えて良いだろう)かかり、全摘出。同じように、甲状腺のない私は、それでよく覚えているのです。
彼女から、多分、やはりリビアから逃げてきたツアルグ族の男性と付き合っていると教えられたのは、1年前のことだったでしょうか。国を追われ、決して自らの希望とともに出たわけでない人々は、わずかな命のヒモにぶらさがるように、新たな国で、その国の最下層で……静かに暮らしていることを改めて思ったものです。
彼らが、自国に残っていたら、生きていたのかどうか……その証明は不可能であろうと、私は思いますが、誰か証明することができる人がいるのでしょうか。

初めて、カトリーヌの家にゴハンを食べに行った時に一緒に食べたフランソワーズの人生を思う時、彼女は流れ流れて(多分、それは流浪と呼ばれるものです、それでも彼女は子供を育てなくてはなりませんでした)、今はブルゴーニュ運河の水門の管理人小屋に暮らしています。子供たちはすでに独立したと聞いています。

人は、間違いなく、異国でも生きていける……と私が思うのは、彼らのことを知ったからでしょう。06年、日本語を話す人間など、半径30㌔に誰もいない、誰も知り合いがいない……という場所で暮らしたことも、理由のひとつでしょう。彼らから教えられたのは,母国を捨てなくては生きていけない現実は、ツライ人生以外の、何モノも、予感させはしないということです。が、生きていることは死ぬことよりも大事だろう、と逃亡を意識しながら私は考えていました。彼らとの出会いによって、人々は、「異国」でも暮らしていけることを、私は、全く疑わなく、なっていたことは間違いありません。


 

3月14日韓国ソウルに。

ソウル着は3時過ぎ。仁川空港。かつての金浦空港とは異なり近代的な設備に感心させられました。
ハブ空港として作られたと聞かされていた空港は、実に美しく思えたのです。私の感じたままでいえば、パリのシャルルドゴールよりも上でした。2年前工事をしていたロンドンのヒースローが出来上がったら、仁川と同格ぐらいに感じるのでしょうか。私にはそれよりも上かもしれない、そう思わせるほど、すばらしい空港でした。

関空とは比較にもなりません。日本のあらゆる空港と比較にならないぐらいステキに思えます。

それは政治家の目線の高さの……差異を感じさせるものでもありました。日本の政治家が、成田では無理だから羽田に……でも、成田も残す……と言っている間に……韓国では、世界トップクラスの空港が生れていたのです。

関空は世界の空港にするために、最初は作られたはずでした。が、結局のところと仁川とは比較になりません。

観光案内所でホテルの手配。英語の方が良いだろうと(私は英語が全く話せないに等しいのです)、妻が交渉。「安いホテルを」という注文だけです。空港近くのホテルで、3人で1万円程度のホテルを見つけて、そこに決めました。

海外にやってきて、ともかく1日でも2日でも、滞在するのに、1から10、ありがとう、こんにちは、さようなら程度の単語を覚えないで行ったことは、これまでありませんでしたが、今回は韓国の言葉を全く覚えていません。あとは図々しさだけ。難しいことは何もありません。売店で何かを買い、レストランでゴハンを食べるぐらい……なのですから。

ホテルを決めたあと、売店でジュースとサイドイッチを買いました。10分で迎えが来ると言っていたから余裕があると思って……お腹も空いていました。頼んだ搾りたてのジュースができる前に、迎えがやってきて(3分ぐらいでした)、私たちを待たなくてはならなくなった運転手に謝りながら、ドタバタと……。まるで、出来の悪い……動きの鈍い観光客みたい態度でしたが、逆に、この時の私には、何だか、そんな態度を取れることが、とてもうれしかったというのか(普段なら自分自身の中で、もっとも嫌っている行動なのです)、それはきっと、韓国について、安堵感が強かったせいでしょう。

私は、この瞬間に、難民になったのだ……という気がしています。その気持ちは、徐々に説明していくつもりですけれど……。

送迎は10人乗りぐらいのマイクロバスでした。同乗は……ロシア人に見える男性の団体。軍関係者か、建築関係か、制服を来ている団体で、体がデカイ。何のための団体だろう、と考えましたが、はっきりとはわかりません。

多分、到着したのは仁川の町中のホテルでした。場所はよくわりませんでした。地図も持っていません。

部屋の様子からは、ラブホテルを改装して一般のホテルにした……というのがわかります。。ハブ空港化で、周辺設備は、急ごしらえ、という感じを受けました。

自分たちのパソコンには、ネットを繋げることはできませんでしたが、部屋にはパソコンが設置されていたので、ニュースを見ましたが、何も変化はありません。

部屋に到着後、妻の元に、会社からの電話が次々にかかってきます。
直属の上司である役員との電話では……。
海外脱出、現在ソウルにいることを話しています。
すでに週刊のマンガ誌を統合して出版することを決定していることが、横で聞いていてわかります。
会社は、いつも通りに全てを出版すると……バカげたことを言っているようでしたが、マンガ家が、東京では描けないと、いう一点で強行突破して統合したようでした。現況を考えれば当然だろう、と思います。

会社の上層部の原発事故に対する認識がゼロに等しいことを、私には理解できません。津波などの被害で東北地方の製紙工場に被害があったことから考えても、紙の問題が起きているはずです。今週は、間違いなく休刊せざるを得ないはずです。それに、被爆の問題は、まだ全く片づいていません。一企業が、社員の避難する自由を奪っている意識は全くないのでしょう。労働者と経営者の問題が、日本という国では、長く放置されてきました。それには長く「終身雇用」というシステムがあったから、放置されている(それについていろいろ語る気持ちはありませんが)。ともかく、働く人々の安全の問題を考えていない経営者は、遠い中世ヨーロッパの、搾取するだけ搾取しながら、そのことにも気がつかなかった城主たちと、何の変わりもありません。会社という組織が、人殺しを平然と行なっている……と私には思えます。
私が逃げることを選択したから、そう思っているわけではない……とは思っていましたが、それが正しいとは、私ちは判断しきれないことです。

本を作るには、大手であろうと、中小であろうと、必ず印刷工場を使います。地震の被害にあった工場は少なくないはずです。それに製本所。製本所は小企業ですから、資金的にも身動きはできないのは仕方のないことです。それが経済社会というものですから。が、儲かっている版元が、希望する小企業を、東京から離れさせる……ことは可能なはずだと思います。そのことをすぐに実行するかどうかの問題は別にして、そのぐらいのことまで視野に入っていなければ、現在の状況を打破することなど、できるわけもありません。

妻の元にかかってくる電話から、伝えられるウワサによれば、多くの大使館が東京を離れたのと同時に、原発事故に対して敏感である会社は、すでに関西でホテルを押さえたり、、仮の(多分そうなのでしょう)事務所を作るために、すでに動いているといいます。私には当然の話に思えましたが、妻の会社には、そんな意識は全くないようでした。

彼ら(編集者)の多くは製本所がどんな仕事をしているのかも理解していない人たちです。大手の編集者と現場の距離の遠さは、小出版社で働いていたから、痛烈に思うのですが……。

製本所は、どんなに近代化されたにしろ、印刷されたモノを手作業で揃えていきます。結果、彼ら、彼女らの手からは脂が失われて、いつもパサパサになっているものなのです。そうやって、本ができていることを知らない編集者たちに……何が見えるのだ……と、私は常々思ってきました。

娯楽誌に社会的価値がないなどとは思っているわけではありません。が、報道ではありません。東京にいることは、娯楽雑誌を作ることの前提ではないのです。だいいち、今後、暗い空気に包まれるだろう東京で本を作っても、人々に希望を与えられる雑誌など、できるはずがない……と私は考えてもいます。人に明るさを与えることができる……のは、思っているより難しいことです。

もちろん、報道ならば、命がかかっていても取材する必要はあります。そんなことは就職した時に覚悟していることだろう、とは思っているのです。もし、私に仕事があれば、現在の状況にとって、良い本を作ろうとか、原稿を書こうとか思ったでしょうけど、なぜか、私には目の前に仕事はなかったのです。実は、地震の翌日からするつもりでいた仕事はあったのですが、それは原作を書き、企画書を書き、版元に持ち込む、という仕事だったので、締め切りがあるわけではありませんでしたし、現在の状況では、持ち込むこと自体が迷惑な話……になるだろう、とも思っていました。

妻は作りかけている単行本の発売日を延期することも話していました。2カ月以上延々と作業をしていたことを、私は知っていましたが、それは仕方のないことだと思っていました。販売が少々遅れたところで、特に会社的に被害を被るわけではない……と私は考えてもいました。

妻の上司は、すぐに帰ってこなくても良いと答えているようでした。その言動に私は、少々驚いたものです。彼は、現在の日本の状況が、どんなモノであるのか理解しているのだろう。危険が迫っていても、東京を離れることのできない責務のあの人間はいる……そういうことです。その発言は、彼が無能でないことを示している、とも私は感じていました。ただ、命の危険が迫っている自覚があるのに、東京に存在し続けようというのは、日本人全員が死ぬまで戦うのだ……と信じていた、太平洋戦争の時の日本人を、私には思わせるものでした。
妻は「中間管理職」なのだから、休むことは問題がない、彼は、そう言ったようでした。

しばし、休息した私たちは、まだ少々早い時間でしたが、夕食に出ました。その前に町を歩きたかったのですが、あまりの寒さに挫折して止めています。韓国は日本より北の厳しい気候の中で暮らしていることを感じました。また、仁川はコンビニが多い町でした。わずかに3分ほど歩いただけで、5軒ほどのコンビニを見つけたからです。結局、ホテルに教えられた、ホテルの前の料理屋に行くことにして、雑居ビルの2階の、割と大きな店に向いました。

鴨料理の、バーベキューレストランという感じの、座敷の……レストラン。王宮料理のように、品数が多いコースメニューを2人前頼み、他に少々注文。英語しか話せないことがすぐにわかったのか、英語のわかる女性が対応してくれました。
時候のアイサツのように地震のこと、原発のこと……について、尋ねられましたが、何と答えたのかは、私には思いだせません。ただ、親切さに感心して、マッコリを頼みました。マッコリは私にとっては、神経を休ませてくれる酒です。だから、マッコリを飲みたかったのです。

料理はなかなかに旨いものでした。ただ、量が、とんでもなく多い気がしました。韓国の人は、この量を当たり前に食べるのだろうか。それとも、かつての中国のように残った料理は使用人が食べる……という習慣の名残(今、そんなことをしているとは思ってはいませんが)で、量が多いのだろうか、と考えていましたが、質問はしませんでした。どうにも、その気力は残っていなかったのです。

ホテルに帰ってから、娘に、放射能障害について話しました。私はあなたの人生に、もうコミットしないつもりでいたのだけど(平和なら、もう、教えることなど、ないと思っていたのです)、こうして、無理やり海外に連れ出したことを謝らなければならない、だけれども、他に私には方法が浮かばなかった……と話しました。同時に、あなたが子供を生むのかどうかは、私の判断ではないけれど、もし、生む時に障害が生れる可能性を、私はできるだけ阻止したい、そうとも言いました。できるだけ、意味のない危険は排除したい、と考えたのです。

もし、海外に暮らすことになっても、誰が相手になるにしろ、あなたから生れる子供は、日本人でもあるのだから……とも、話しましたが、どうにも、ツライ話にしかならず、悲しい気持ちになりました。

彼女が大学に入った1年前、もう、彼女の人生に、私が何かをすることはない、と思っていただけに、現在の状況は……彼女の人生で、起こりえると想像していた事象を越えているとも話したはずですが、はっきりとは覚えていません。

ホテルで韓国の児童向けの番組をみて、娘は「牛乳」という単語を覚えたと言っていました。その韓国語は……私は、残念ながら覚えていません。が、彼女は生涯覚えているような気がします。

少々眠ることができ、やっと、少し安心していることに気がつきました。

明け方、便意を催してトイレに。

川崎で地震に遭遇して以来、初めての「うんこ」でした。
緊張が、便秘に導いていたのだろう、多分大量のウンコに、トイレが詰まって、「通す」のに悪戦苦闘することになります。便秘のウンコでトイレが詰まる……は、お笑いの脚本でも書きようがなく……うんざりした気持ちになっていました。

当初の予定を変更して、少し早めに7時半にホテルを出発することをフロントにお願いしました。来た時と同じようにマイクロバスで送ってもらったのですが、なるべく早く通関して、安心したい気持ちになりたかったのです。

この時、考え始めていたことは、フランスに到着して、フランスの友人たちに質問された時に……日本人のレスポンサビリテ(責任)について、どう答えたら良いのだろう……ということでした。

各種の報道から、日本が国際的に(あくまで政府レベルでということですが)見捨てられつつあることを感じてもいたことも、そう考えるきっかけになっていたように思います。私は海外で暮らす時、自分を民間の外交官のようなモノだと考えています。私がステキなら、日本という国を、しばらくの間はステキな国と思ってくれるだろう、そう思うからです。

災害復旧の問題はあるが、原発事故に対する対応の遅さは、海外の諸国をイライラさせていたように、私には思えていました。日本のことだから、日本でやる……というのは、鎖国している国のロジックでしかありません。放射能は、薄められるにしろ、世界各地にばらまかれる。その濃度は薄いにこしたことはなく、現在のように、手をこまねいているのは、その総量としては莫大になり、それは世界に被害をもたらす、ということを私は考えていたのです。

原子炉は国家機密である……というのは、同盟国、原子力でいえば、アメリカ、フランスとの関係を思えば、「原発が、致命的な事故を起こしている状況では」、この二国に秘密にしておかなくてはならないほどの機密はないはずと私には思えています。だいいち、その欠陥的システムによって、世界に非難されることはあっても、事故を起こしたシステムを、総体として、真似しようなどという技術者がいるとは思えません。それよりも、地震、津波によって、起きた事故の中から……事故を防止するメカニズムを世界が見つけた方が良いと私は考えています。原発事故は、自国だけの問題ではない……世界中は、そう考えている……もしくは、そう考えたい……という感覚が多数を占めていると思うからです。津波や地震によって原発事故が起きたことに腹をたてている政府首脳はいないように、私には思えていました。ただ、その後の対応に関しては、呆れているように、さまざまな情報を頭の中にいれるうちに、私は感じるようにはなっていました。

アメリカからは、すぐに協力することを打診されているし、原発の大きな事故に対して、世界中の英知を結集することは、当然といえば、当然のことでしょう。自国でやるという考えならば(主にそれは自衛隊、もしくは、バカバカしいほど日本は優れているという意見に凝り固まった右勢力の意見なのでしょうが)すでに終息させていなくてはなりません。記憶によれば、チェルノブイリは、事故の当初は自国でやる……と言っていたように思います。多分、事故を起こした原発も、国家機密であると思ったのでしょう。
すでに原発を持っている国以外に、事故の終息に手伝うことができる国はない以上、そこに機密があるわけはないのです。チェルノブイリの後、その原子炉を真似て作ったところはないはずです。確かに、事故を防止するための知識は、直接的に得ることができたでしょうが、それはセキュリティの強化に役立っただけだと、私は考えていました。
 
こんな考えをめぐらせながら、すでに、事故状況はチェルノブイリと同じではないか、とぶつぶつと言い続ける私に、妻と娘は、そんな強い調子で喋らないで……と、怖がっている様子でもありました。

日本にとって幸福だったことは、原発事故によって、封鎖されようとしている地域(距離において)の半分が海であることだろう、とも思いました。当時の風を思うと、どうも、多くの放射能は海側に流れているように、私には思われていました。
だからこそ、欲しい情報は、海側の放射能汚染が、その数値がどういうものであるか、でした。新聞を見返してみると、当時、放射線量のデータは、どこにもないようです。

だしてくれたなら、東京は安全を確認できた……とは、思っていませんが、ないよりあった方がありがたかった……とは思います。

ともかく、半径30㌔(それ以上近づくのは、すでに危険であったはずです)で良いから、海側の情報も欲しい、と思いました。

私の中では、すでに、この時点で被害の総量は、少なくともチェルノブイリの事故を越えています。フランスに到着したあとのことだった気がしますが、何かの記事で堀江貴文(ホリエモンだ)が、スリーマイルを越えたね、と冷静を装っている原稿を書いていました。が、それを読み、私は笑いだしてしまいました。

彼は人口密度が異なること(日本の方が圧倒的に人口は多いのです)を考えていない、と思ったのです。堀江氏は、事故そのものを、物理の実験室で起こったように考えているのか、と思っていました。事故は、人々の被害の状況によって、大きいとか、小さいとか考えるべきものだと……私は思っていたのです。

私自身の思いの中では、事故自体(物理の実験室的にみても、ということですが)の推移でさえも、すでにチェルノブイリを越えていると考えていました。繰り返しになりますが、何より、その被害はチェルノブイリとは比較にならないぐらい人々に大きな損失をもたらすだろう、というのが、この時の私の考え方でしたし、この原稿を書いている時の考えでもあります。

原発から東京までは、わずかに200㌔しかありません。これを200㌔しかないと考えるのか、200㌔もあると考えるのか、各人の危機意識のへだたりによるものだろうとは思いますが、チェルノブイリの時、日本では、雨に当たると危険……と何度も聞かされたのに、わずか200㌔の地点にいる人が、じっとしているのはなぜなのか……私には理解できませんでした。まさか、ロシアから出る放射能は危険だが、日本から出る放射能は、そんなに危険ではない……とでも思っているのかしら……と。日本人は、政府に殺されることが平気な民族なのかとも思っていました。第二次世界大戦は、まさに、その象徴だと私は思っています。

ふと、いかりや長介のことを考えていました。それは、彼が危機一髪で命を長らえた経験があったことを、思いだしたからでしょう。私にも不思議な感覚でしたが、なぜかいかりや長介が浮かんだのです。ずいぶん前のことですが、ある雑誌に、人物論を連載で書いていたことがあり、その時に「お題」として「いかりや長介」をいただき、調べるうちに知ったことが、命からがら……であったからです。彼は、戦争中、東京の下町に住んでいました。が、東京大空襲の直前(多分2~3日か、前日か、ということだったと思います)に富士宮に疎開して、命を助かっているのです。富士宮からも、東の焼けていく様子が、赤く染まった夜空を見たことを、強烈に覚えているとインタビューで話していたのか、原稿に書いていたのか。ともかく、その記事を、私は神妙な面持ちで読んだ記憶があるのです。まだ、彼が幼いといっても良い時代に受けた、生死の境目の話でした。

生き残るとしても、人間にとって極限に近い状態(東京での空爆が日常になっていた時代は、間違いなく極限状態だったでしょう)での、死との境界線は、いつも残酷なものです。

私は、この日、かわぐちかいじが描いたマンガについても考えていました。
日本の危機に対する、ひとつのアプローチとも思えるマンガでした。確か「モーニング」に連載していたと思います。私は全部を読んでいるわけではありませんが、日本が崩壊していく、とばぐちとして、かわぐち氏は、地震による災厄を、プロローグとして描いていたと思います。そこから、復興していく大河ドラマでした。

そのマンガでは、大地震から富士山爆発が誘発されていたように思います。

今回の震災、被災状況は……彼のマンガのプロローグとして描かれて状況そのままに思えていました。すると、富士山は爆発するのか……という思考が私の頭の中で駆けめぐります。

マンガ同様に富士山が爆発し、それが東海沖地震を誘発する……ならば、やはり、日本は終わってしまう気がします。

このまま、原発事故がひどい状況へと向っていけば、彼が描いた、フィクションではあっても、ひとつの危機に対するアプローチとして描いた作品そのものに現実が似通ってくるならは、彼は悲しい気持ちになるのだろうな、とも、私は思っていました。少なくとも、彼は日本の危機を考え、そして描いたと考えるからですが、危機に関して、何をすれば良いのかは、誰にもわからないことなのでしょうか、政治的権力を持つ人間が、かわぐちのマンガを荒唐無稽と考えずに、なにごとかをアプローチしていれば、今回の原発事故は、今のような、最悪の状況にむかってひた走る……などという状況にはならなかったように、思っていたのです。

かわぐちかいじさんとは、新宿のゴールデン街の店で、何度もお目にかかっことがありますが、なぜか、あまり話をした記憶はありません。その店のママが亡くなった時に、客を代表して、彼が弔辞を読んだことが思いだされぐらいなのですが……。

10時半、パリ行きに搭乗。娘が、「木村カエラの小さい時にそっくり」の子供がいる、言い出します。

なるほど、カワイイ。
でも、「木村カエラの小さい時にそっくり」を、何でお前が知っている……とも言いました。

よほど、私はツライ顔をしていたのだろう、妻と娘に、「チチが笑った」と、言われたのを覚えています。ずいぶん、笑った顔を見ていなかった、とも。

2歳に満たない「小さいカエラちゃん」のファミリーは、私たちの斜め前に座っていました。フランス人男性と日本人女性の夫妻の娘が、「小さいカエラちゃん」でした。2歳に満たない……は、彼女の席がなかったから思ったことです。確か2歳未満だと、席はなくても、飛行機には乗れるところから、年齢を推定したのです。

搭乗して、すぐに新聞を配ってくれましたが、気がつかずにいたのを、妻が「新聞を読む?」と言うので、ルモンドをもらって、とお願いしました。

家族3人連れだったので、私たちの席は窓際の3人がけ。私の席が窓際で、通路側に妻が座ったので、お願いしたのです。

妻が、搭乗員から新聞をもらい、読み始めました。

ルモンドは、フランスの高級紙です。90年にフランスに滞在した頃には、まだ、ルモンドには写真すら掲載されておらず、全ては文字で説明する……言葉が強固な(この説明は省きますが)もっとも、フランスらしい新聞でした。当時は、いくばくかのイラストは掲載されるようにはなっていたと思いますが、写真はありませんでした。

昨年末のことだったと思いますが、ルモンドが経営不振で、フランスの大手酒販、ファッション等を総括している(商社のようといえば良いのだろうか)会社が、買収するというウワサが流れていました。買収先は「口ははさまない」と言明したというのに、編集権に問題が発生するのは間違いない、とジャーナリストたちの間で反対運動が起きた記憶があります。右、左、どらちの陣営のジャーナリストからも、その抗議は起きていた……という記憶があるのですが、その結末については、よくわかりません。

ルモンドという新聞が、フランスで最も信用されている新聞であることは知っていますが、実際に、フランスに暮らしている時でさえ、私はルモンドを読んでいません。なぜなら、私には、ルモンドで書かれているフランス語が、難しすぎたからです。辞書を、いくら引いても、文中にある代名詞が何を指しているのかわからない(インテリ階級の話すフランス語は、一般市民の話すフランス語とは違い私には難解すぎることは、長く滞在しているうちに知ったことでした)ことが多く、何を書いているのか、すぐにわからなくなるからです。

そんなことは百も承知で、ルモンドを読んだのは、ルモンドならば、情報があるのではないか、と思ったからでした。

日本で起きている事件ということもあり、大意は掴めるだろう、と思ったこともあります。

ただ、メインの記事は、想像していた通り、絶望的な記事でした。それでも、何の根拠もなく大丈夫と書いている日本の新聞とは全く違います。事実の(しかし、専門家に取材したうえでの推定ではあったでしょうが)積み重ねは、最悪の事態を推定しています。

政府が、国民の不安を和らげるために、いくぶんか、安心させるための言辞を弄するのは仕方がないにしても、新聞は、それに追随する義務はありません。が、日本の新聞は追随するばかりです。

絶望的な記事ばかりに、やはり、私の気分は暗くなっていましたが、小さな記事でしたが、私にとって、初めての事実が書かれていたのには、ほんの少しではありましたけれど、明るい気持ちにはさせてくれました。それは……アメリカ軍が、原発事故のオペレーション(作戦)を持っているという情報でした。オーストリアの(原子力関係の世界的組織IAEAに関係している)大学教授のコメント記事の中に、その情報があったのです。世界には、現在の日本の危機的情報を切り開く技術があるではないか……と私は感じていました。ただ、本当に、誤訳していないだろうか……ということだけが、この時の不安でした。

何しろ、着の身着のままで逃げなければ、脱出できない、と思っていたこともあって、今回、私はフランス語の辞書を持っていません。ただ、これまでの経験で知っているフランス語力だけで、ニュースを読んでいるのですから、それが私にとっての不安となったのです。

知らない単語が、いくつも並んでいます。が、調べることはできません。あとは、もう、感覚だけで読んでいたのですから、それでも、もし、そうならば、何とかなるかもしれない。最悪の事態に突入しても、改善するための、能力を人類は持っている、と思ったのです。残念なのは、日本人は、そのようなシステム、作戦を持っておらず、同時に、日本人は、そういうことを考えもしなかったのだ……という失望感でした。

米軍には、原発事故で火災などが発生、放射能が放出されている状況でも、消火活動、冷却活動をできる、ロボットによる作戦があり、日本の現在の状況でも、活動できる「作戦」がある、というのが、その記事でした。

つまり、米軍が出張れば、今の状況の悪化は少なくとも停滞させることができる、そう思えたのです。

それは、原発が起きてから、初めて知った、私に希望を与えてくれる、最初のニュースでした。













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